【光る君へ】彰子に育てられた「定子の子」 敦康親王の気の毒すぎる短い生涯

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敦康を東宮にしたかった彰子

 道長が敦康を彰子に育てさせたねらいは、別のところにもあった。敦康が彰子のもとにいれば、一条天皇は敦康に会いたくて、彰子の後宮を訪れる機会が増えるのではないか。そうすれば、彰子が皇子を産む可能性も増すのではないか。それをねらうのと同時に、彰子が皇子を産まなかったときのことも考えていた。結果的に敦康が即位することになっても、彰子を敦康の養母にし、自分は養祖父になっておけば、権力を維持できるというわけである。

 しかし、寛弘5年(1008)9月11日、道長の念願がかなって、彰子は敦成親王を出産した。ドラマでは秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』によれば、道長は言い表せないほど大よろこびだったという。そして、これ以降、道長にとって敦康は、「まったく無用の存在、むしろ邪魔な存在となった」(『藤原道長と紫式部』講談社現代新書)のである。

 しかも、翌寛弘6年(1009)11月25日には、彰子はさらに第三皇子の敦良親王を出産した。東宮候補の孫が2人できた道長にとって、敦康の存在はますます邪魔になっていっただろう。そして、すでに40代半ばに達していた道長は、自分が早く天皇の外祖父になって、政権を安定させたいという望みを、大きくふくらませたと考えられる。

 だが、彰子は『光る君へ』のセリフどおりに、敦康親王が「ほんの幼子であられたころから、ここで一緒に生きて」きた。親代わりになって8年が経過していた。だから、たとえ敦成を出産したあとであっても、先例どおりに第一皇子である敦康を東宮にすべきだと考えた。

 というのも、先に敦康が東宮になり、即位したとしても、敦成はまだ生まれたばかりなのだから、いずれ東宮になり、即位する可能性は十分にあった。一条天皇の在位は25年続いたが、その長さは当時としては例外で、数年で引退することが多かった。だから、両統迭立の習いで、敦康の次には冷泉系の敦良をはさんでも、敦成はその次に東宮になればいい。

 だから、一条天皇も彰子も、まずは第一皇子の敦康を東宮にしたいと望み、『栄花物語』によれば、彰子は父の道長に、敦康を東宮にしてほしいと何度も申し入れたという。

第一皇子で東宮になれなかった例外中の例外

 しかし、道長は彰子の願いにはまったく耳を傾けなかった。『光る君へ』では描かれないが、道長は病弱であり、ある年齢からは飲水病(現代の糖尿病)の持病もかかえていた。元気なうちに、一刻も早く天皇の外祖父になり、摂政として君臨したかったと思われる。

 結局、道長は寛弘8年(1011)5月26日、一条天皇の譲位を発議し、6月2日、東宮の居貞親王に即位を要請した。そして、6月13日に居貞が即位すると(三条天皇)、敦成が東宮になった。藤原行成の日記『権記』によれば、一条天皇は譲位を決意したのちも、なんとか敦康を東宮にしたいと望んだそうだが、行成は「道長の意を損ねたら敦康も不幸になる」と言って諭したという。その忠告は、当時の政治状況を考えれば的を射ている。

 ちなみに、平安時代に皇后および中宮が産んだ第一皇子で東宮になれなかったのは、敦康を除けば、4歳で早世した白河天皇の皇子、敦文だけだったという。敦康はいわば例外中の例外に追いやられたわけで、本人も、一条天皇も、育ての親である彰子も、さぞかし悔しかったことだろう。

 その代わりに、敦康親王には経済的に手厚く援助することが決まった。その後、敦康は政争から離れて風雅の道に生きたが、残念ながら長くは続かなかった。異母弟の敦成親王が即位して(後三条天皇)2年余りのち、寛仁2年(1018)12月に発病して亡くなった。享年はわずか数え20歳。自分の意志はなんら示せないまま、周囲のどろどろした思惑に翻弄され続けた短い人生だった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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