「何もしないことの素晴らしさがある」 横尾忠則が“何も起こらない日常こそ幸せ”と考えるワケ
すでに4、5本入稿しているのでこのエッセイが掲載されるのは9月下旬頃になるのではないかな。今日は8月12日、灼熱の太陽が、自転車でコンビニに出掛けた背中に焼けつくように食い込む。編集部のTさんは何んでもいいです、その日の出来事をつれづれなるまゝに書いて下さいとおっしゃるが僕は物書きじゃないので、何かテーマを与えて貰ったほうが書きやすいんですよね。
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吉田兼好は「徒然草」という随筆を書いています。兼好は自身の人生観や見聞したものや、自然について書きました。出版社があって兼好に随筆を依頼したわけでもないので、日記を書くような気分でどうでもいいようなことを書いていたんですかね。現在のように忙がしい時代ではなく、山水画のようなのんびりした風景の中での生活だったんですかね。つれづれ(徒然)というぐらいだから、なすこともなく、山水画のような物寂しい、所在ない、なんとも手持ちぶさたで、どう時間をつぶしていいかわからないような退屈さの中で、様々なことを妄想していたのか、それとも坐禅を組んで頭の中を空っぽにする時間こそが贅沢な瞬間だったんですかね。
とこんな風に空想していたのだが、どうも僕のアトリエでの日常こそ、こんな感じではないのかとふと思うのでした。僕のアトリエの一日はかなり徒然的であるように思うのです。絵は毎日描くわけではありません。大半の時間は吉田兼好的生活といえるかも知れません。絵を描かない日だからと言って町に出たり散歩をしたり、本屋に出掛けるようなことはありません。時間があったらアトリエのソファーに横になって、余計なエネルギーを消費するようなことはありません。本を読んだりテレビを観ることも誰かに電話することもなく、ただ何も考えないというか、考えられない頭を静かに横にしているだけです。はたから見ると病人と区別がつかないかも知れませんね。
編集者のTさんは、一日のことを書いてくれるだけでいいです。横尾さんと同年代の読者も沢山いますからと、このエッセイ(「曖昧礼讃ときどきドンマイ」)に何もしなきゃ何もしないことを書いて下さいというのです。そういうと僕も最近は何もしないことの素晴しさがあるように思うのです。
世の評論家のような人は、歳を取って何もしないのは良くない、老年になればなるほど好奇心を持つべきだとおっしゃる。若い頃は好奇心を持ち過ぎて疲れてしまった、せめて老年になれば、下手に好奇心など持って煩悩や欲望に振り廻されたくないと僕は思うのですが間違っているんでしょうかね。老齢になると自然に煩悩が失くなって、悩んだり苦しんだりから卒業していくように思うんですが違いますかね。何も起こらない日常こそ、静かで幸せな時間体験ができるような気がするんですが。
とはいうものの僕も終活ではないですが、片付けなきゃならない問題は山積しています。それをほっとくわけにはいかないので、会計士に相談しながらやっていますが、まあ如何なる難問でも最終的にはなるようになるのではないかと、どこかで楽観的にかまえています。人生はピタッと思うようになるとは思っていません。どこかで諦める必要があります。諦めるということはある意味で悟りでもあるように思います。
僕が絵を描きながらいつも思うのは諦観のタイミングです。諦めるタイミングが狂うと絵はメチャクチャになってしまいます。人生も同じじゃないかと思います。
「諦観」を辞書で引いてみました。すると「本質をよく見きわめること」と書いています。さらに「俗世に対する希望(欲望)を絶ち、超然とした(生活)態度をとること」と書かれています。
諦めることのできない人は煩悩に足を取られて欲望の虜になってズルズルと身を破滅させないとも限りません。先っき僕が絵のタイミングについて触れたときに、どこかで諦めて筆をおかないとメチャクチャになると言いましたが、これを生活や人生に置き換えればよくわかると思います。
老年になって諦め切れないで好奇心など持つと、諦念の生き方と反対の生き方をすることになります。自分の能力に対して諦めるなとハッパを掛ける人もいますが、欲望の限界を越えるとロクなことがないというのが僕の経験から得た教訓だと思っています。
若い頃は諦めないで突っ走ったりもしました。それはそれで失敗から学ぶこともあります。僕は自分の描く絵から、学んできたように思います。絵の中で色んなことを試めします。そして失敗も繰り返しますが、これを実人生で行なうのは非常に難しい。僕はキャンバスがそのまま人生だと思っています。そしてそこで経験したことを実人生で再現するようにしています。だから絵は自分の人生の教師だと思っています。