役所広司、市村正親ら輩出「舞台芸術学院」78年で幕 「コロナウイルスの影響をモロに被ってしまった」

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「池袋は青春の門の入口だった」

 卒業生や関係者に“舞芸(ぶげい)”の愛称で親しまれた舞台芸術学院は、そもそもどんな経緯で開校したのか。

 古参演劇記者の解説。

「野尻徹という青年の死がきっかけとされています。野尻は終戦とともに復員すると、早大演劇研究会を母体に、池袋で『スタジオ・デ・ザール』という演劇拠点を開設しました」

 ところが、野尻はその後、昭和23年1月に27歳で急逝。彼の父は豊島区在住の開業医で、社会運動家に多くの知己を持っていた。

「早すぎる息子の死を悼んだ父は“若者が演劇に打ち込める場を”と私財を投じ、学院を創立して自ら初代校主に就任したといいます」

 学院のサイトには、卒業生として作家の五木寛之氏(91)の名前も見られる。

「実は、学費を払わない“モグリ学生”だったとか。五木さんは昭和27年に福岡から上京し、早大文学部露文科に入学した。貧乏学生だった彼は、生活費を稼ぐために池袋で住み込みで働いていたのですが、ある時、同じく苦学生だった親友に誘われて舞台芸術学院夜間部に入り込んだ。以来、モグリの学生として1年半ほど通っていたそうです」

 五木氏は、公の場で当時を振り返ったことがある。

「彼の自伝的小説『青春の門』が舞台化された際、五木さんはその制作発表に出席されたのです。そこで学院に通った日々を振り返り、“池袋は僕にとって青春の門の入口だった”と懐かしんでいましたね」

 閉校後の校舎は、渋谷から移転する劇団青年座が新たな拠点として利用する。

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