「斎藤知事は反社会的勢力にはめられた」説が陰謀論扱いされる理由
反社会的勢力が知事の敵対勢力だ
四面楚歌としか言いようのない状況に追い込まれている斎藤元彦兵庫県知事に対して、同情的な声も存在しないわけではない。
主にX上で展開されているのは、「斎藤知事ははめられた」という見立てに基づく擁護論だ。
一体誰が何のために「はめた」のかといえば、「反社会的勢力が利権を守るため」ということのようだ。
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兵庫県内にある神戸港は反社会的勢力の利権の巣窟であり、改革派の知事はそこに手を突っ込もうとしたゆえに「はめられた」という見立てである。
デイリー新潮では、知事が運転手にも自宅を教えず、それどころか県の災害対策名簿にも住所が記載されていないことを以前の記事〈齋藤知事の退職金は「1500万円以上」 運転手にも「自宅を教えない」特異な性格で「災害対策本部名簿も空白に」〉で伝えた。が、擁護する側の中には、これも反社会的勢力を警戒してのことだ、と解説する向きもいる。
これらが本当ならば知事は気の毒な犠牲者ということになるのだが、今のところこの説を採っているマスメディアは存在していない。神戸港は兵庫県ではなく、神戸市の管轄だという指摘もある。また、そもそも知事本人もそうしたことを一切口にしていない。
むろんそれも反社会的勢力の攻撃を恐れて口にできないのだ、という仮説も成り立たないわけではないが、そこまでの力を持つ「闇の勢力」が日本に存在するかははなはだ怪しく、「はめられた」説は、一種の陰謀論と解釈するのが自然だろう。
もっとも、陰謀論の常として、まったく何も「タネ」がないわけではない。この説で言えば、ある時期、今で言うところの「反社会的勢力」、具体的には山口組が神戸の港湾と密接な関係にあったのは事実である。このあたりの事情が、独自の見立てのバックにあるのだろうか。
では両者の関係性とはどのようなものか。そして今はどうなっているのか。
長年、暴力団の取材を続けてきたフリーランスライターの山川光彦氏の著書『令和の山口組』をもとに見てみよう(以下は同書をもとに再構成したものです)
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山口組の原点
山口組の創始者は、その名も山口春吉(はるきち)と言います(1881年生まれ)。
山口は兵庫県沖の瀬戸内海に浮かぶ淡路島で漁師として生計を立てていましたが、貧しい漁師暮らしに見切りをつけ、職を求めて神戸へ移ります。
春吉が神戸に渡った時は25歳。日露戦争の直後で神戸港は日本有数の貿易港として活況を呈し、周辺の農漁村からは春吉のように一攫千金を夢見る人々が神戸に多数、流入していました。
当時ほぼすべてが人力による、港での荷揚げという厳しい労働環境に置かれた日雇いの労務者には、彼らを統率する強力なリーダーが必要でした。なにしろ狭くて蒸し暑い船倉から石炭や重機を人力で運び出すのですから、腕力自慢の荒くれ者でないと務まりません。春吉は労働者を束ねる頭領として信用を集め、頭角を現していきます。そして、荷揚げ人足を束ねる「組」として「山口組」を旗揚げします。この「組」は、土木業に端を発する大林組とかの「組」と同じ意味合いでした。
山口組の始まりは正業の事業であり、最下層の労働者のなかから立ち上がった集団だったことは特筆に値します。山口組が「近代ヤクザの典型」といわれるのもそのためです。
以来、山口組はミナト神戸での荷役と市場での運搬、春吉が愛好し庶民の数少ない娯楽として近隣から歓迎された浪曲や相撲の興行という二枚看板の事業を全国にまで拡大、成長させていきます。これが、敗戦後に山口組が急成長する経済基盤となったのです。
3代目と港湾
中興の祖とされる3代目組長の田岡一雄といえば、一般には東映任侠映画「山口組三代目」(1973年)で高倉健が田岡役を演じて大ヒットしたことでご記憶の方もいるでしょう。
田岡が組織原理として打ち出したのは「事業と軍団の分離」でした。これが敵対する警察当局からも「先見的」な戦略と称されたのは、配下の「企業舎弟」に港湾労務者を管理させる一方で、これら実業部門で稼いだ資金を抗争部門に惜しみなく「投資」。それが、山口組が進出する先々の地元勢力の度肝を抜く、組員の「大量動員」方式を確立することに寄与したからです。
山口組は「全国制覇」へとひた走り、60年代には日本最大の暴力団組織へと駆け上がるに至ります。主に昭和年間に業界の内外に築かれた好戦的な「山菱」ブランドが、固有の経営資源となっているのです。
港湾への影響力は低下
山口組は、東京オリンピック(1964年)を機に本格化する警察の「第1次頂上作戦」のあおりを受け、港湾と興行の正業分野での傘下企業の大半を失います。
ただ、組の息のかかった者が実質的に経営する倒産整理、金融、不動産、土建、解体業など「フロント企業」という形態で首都圏を含め列島各地への進出はむしろ加速したのです。
バブル景気華やかなりし頃は、「地上げ」を含めた土地開発や入札調整、仕手筋と手を携えての株価操作など、大型の「民暴」(民事介入暴力)が盛行しました。この分野でも、全国区の山口組の暴力イメージが、取引の障壁となる相手を黙らせるのに多大な威力を発揮したのです。
もとより、恐喝、博打(ノミ行為も)、用心棒代(みかじめ料)、薬物取引など、伝統的な食い扶持も維持されてきたことは言うまでもありません。
もっとも、バブル崩壊後の1991年に暴力団対策法がつくられ、暴力団排除条例が全国的に実施された2010年代以降、彼らの存在は一般社会から切り離されていくようになりました。山口組も例外ではなく、シノギ厳冬の時代を象徴する事件が相次ぎます。
2019年に、息子が経営する尼崎市の鉄板焼き店を手伝っていた神戸山口組の幹部が、「6代目」系元組員に自動小銃で射殺されましたが、この幹部はシノギに困り、借金でもあったのか組織から脱退することも許されず、実質的に店の経営で生活していたようです。
「6代目」にしても事情は同じで、近年、関西地方を荒らし回っていた高級車窃盗団が摘発を受けましたが、主犯格は「6代目」傘下組織の組長でした。その組織は名門テキヤの系譜を継ぐ名跡(みょうせき)の傘下だったのですが、「暴排」で祭礼からテキヤ系組織が排除されたこともあり、組織ごと窃盗団に鞍替えした模様です。
困窮に陥っているのはなにも正業に関してだけではなく、最近では、組員の生活に直結する電気・ガス・水道などライフラインにも規制が及ぼうとしています。
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ここまでをまとめると、山口組が神戸港を原点として生まれたことや、昭和のある時期までは深く関わっていたことは事実だとしても、その影響力は時代と共に失われてしまったということになる。山口組以外の勢力の存在も否定できないとはいえ、巨大な闇の利権に手を突っ込もうとして反撃を受けた、というのはかなり無理な解釈だというのが常識的な見方だろう。
もちろんこれを信じるか、斎藤知事擁護論を信じるかは個人の自由であるが――。