熾烈を極めた「吉田茂vs.鳩山一郎」の政権抗争 松野頼三氏が亡くなる直前に明かした「2人の関係」

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軍部批判で意気投合した過去も

 そんな2人の接点といえば、戦前での反軍的な自由主義者という立場である。政党政治が後退し、軍国主義が台頭していく時代、吉田は武力侵略や国際連盟脱退など、軍部のやり方に対して一貫して反対の立場をとっていた。

 一方の鳩山も昭和11年、月刊誌に「自由主義者の手帳」などの論文を発表し、議会政治を護るうえで軍部独裁に反対する立場を表明していた。昭和12年の夏には、欧州に外遊した鳩山がロンドンの吉田大使を訪ね、軍部批判で意気投合し、大いに歓談したという話がある。

 だが戦後の政権争いのなかで、2人は宿命のライバルになってしまった。吉田が勇退する頃には、鳩山はある雑誌で、当時問題になっていた汚職事件(造船疑獄)に関し、吉田が何の説明もしないことに対して、「実際に国民に納得をさせないで政治をやるというのは非常に誤りである。吉田君はさっぱり議会に出て行って説明をしない」(「中央公論」昭和29年11月号)と、かなり直截的に吉田の独善性を批判するようになっていた。

松野頼三氏が語った「本当の仲」

 だが2人は本当に仲が悪かったのだろうか。当時の事情をよく知る、元衆議院議員の松野頼三氏(代議士である父鶴平氏は鳩山・吉田抗争の仲裁役を果たしていた)は、公の場を離れれば、2人は最後まで仲は悪くなく、お互いを評価していたはずだと語る。

「(鳩山の)公職追放が解除されたら政権を返す、という約束は、確かにあったんです。その約束は、鳩山さんが言い出したのではなく、吉田さん自らが言い出したものでした。当時吉田さんは、本当は総理にはなりたくなかった。だからこそ『じゃあ(復帰までは政権を)預かるよ』という言葉も出てきたんです。

 しかし実際は、なかなか政権を譲らなかった。なぜかというと、吉田さんは鳩山さんの周りにいる政党人が大嫌いだったからです。戦時中、政党人は軍部に反抗せず、戦争反対にも立ち上がらず、ただ黙っていた。だから吉田さんは政党人を信用していなかった。昭和24年の選挙では、池田勇人や佐藤栄作などの官僚出身者を多数当選させた。それが吉田さんの理想とする政治家像だった。要するに政党人は頼りにならず、だらしないと思っていた。鳩山さんは軍部に反抗していたけれども、もし政権を鳩山に渡せば、鳩山の周りにいる政党人たちが台頭してくる。それが我慢できなかったんです。

 意外かもしれませんが、吉田さんはまったく政権欲のない人でした。総理だって頼まれてやっていただけで、政権についていた7年の間も『いつでもオレは辞める』と言っていた。辞められては困るから、まわりの者がなだめすかせてやらせていたんです。吉田さんは鳩山さんに、『まわりにいる三木や河野などの政党人を切って来るなら政権を渡す』、とはっきり言っていた。でも鳩山さんからすれば、『それはおまえ(吉田)のワガママだ。オレの仲間にいちいちケチをつけるな』ということになります。

 吉田と鳩山の政権抗争というのは、要するにそこに尽きるんです。2人の個人的な争いではなく、あくまでも吉田グループと鳩山グループの抗争だった。吉田さんと鳩山さんは、反軍運動をやって憲兵に呼ばれたりするなど、反戦の同志、仲間だった。鳩山さんが公職追放になる前も、吉田さんは鳩山さんが終戦直後に行っていた占領軍批判(「占領軍は早く本国に帰るべきだ」などの発言)について、『だからおまえはダメなんだ。占領中に占領軍批判をしたら追放になるぞ』と警告していたほど。2人は世に言われるような宿敵ではなく、本来は盟友と言う方が正しいんです」

 とはいえ、政権争いに端を発した2人のライバル関係は終生続いた。昭和34年に鳩山が76歳で死去した時も、吉田は葬儀にすら出席しなかったという。その吉田は鳩山の死の8年後、89歳で逝去。死して尚、名声を競おうとしたわけではないだろうが、戦後初にして唯一の国葬で送られる栄誉に浴した。

上條昌史(かみじょうまさし)
ノンフィクション・ライター。1961年東京都生まれ。慶應義塾大学文学部中退。編集プロダクションを経てフリーに。事件、政治、ビジネスなど幅広い分野で執筆活動を行う。共著に『殺人者はそこにいる』など。

デイリー新潮編集部

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