熾烈を極めた「吉田茂vs.鳩山一郎」の政権抗争 松野頼三氏が亡くなる直前に明かした「2人の関係」

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「新憲法発布、サンフランシスコ講和条約締結」の吉田茂氏と、「日ソ国交回復、国連加入」の鳩山一郎氏。いずれ劣らぬ功績の持ち主とされる2人の総理は、激しい政権抗争を繰り広げたことでも知られる。その関係性は「宿敵」とも称されたが、国会議員だった父親が抗争の仲裁役を果たしていた松野頼三氏は「抗争は個人間のものではなかった」と語った。その当時、頼三氏は89歳。取材後、記事の編集作業中だった2006年5月10日に死去し、掲載誌を目にすることはなかった。

(「新潮45」2006年6月号特集「昭和史13のライバル『怪』事件簿 吉田茂×鳩山一郎『総理の椅子が引き裂いた友情』」をもとに再構成しました。文中の年齢、年代表記等は執筆当時のものです。文中敬称略)

発端は鳩山氏への公職追放令

 戦後政治の中で、吉田茂と鳩山一郎の政権抗争ほど熾烈なものはない、と言われる。戦前は、反軍的な自由主義者として同志だった2人は、戦後宿敵となり、激しい政権抗争を繰り広げた。

 その発端は、昭和21年5月3日付のGHQ(連合国総司令部)の“覚書”にある。戦後まもない昭和20年11月、鳩山は日本自由党を結成し総裁に就任した。翌年4月、戦後初の衆議院総選挙で自由党は第一党になり、鳩山は総理大臣の大命を受ける。そしてまさに組閣に着手しようとした5月4日の午前、GHQによって突然、公職追放されてしまったのである。

 なぜ鳩山は、「好ましくない人物の公職からの除去及び排除」というGHQ覚書、つまり公職追放令(パージ)を受けてしまったのか? 鳩山の戦時中の著書を要因とするもの、他政治家の陰謀説などがあるが定かでない。いずれにせよ、占領下におけるマッカーサーの権限は絶対的だった。

 そこで鳩山は、当時外相として占領軍との折衝にあたっていた吉田茂を後継者に指名する。官僚出身の吉田ならば、政権に執着せず、追放が解除されれば政権を返すだろうという目論見があったからだ。

 当初、吉田は乗り気ではなく、総理大臣を受諾するにあたって鳩山に、「自分は金づくりはしない」「(鳩山は)人事(閣僚の選定)に口出しをするな」「嫌になったらいつでも辞める」という条件を出した。さらに「鳩山が追放解除になったら総裁の座を譲る」という条件があったとされる。しかし後日、吉田はそのような条件はなかったと主張し、これが後に2人の争いの火種となってしまう。

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