阿部定の素顔 まるでどこかのスター、三橋美智也のファンで後援会にも、気まぐれな人…どんな晩年を過ごしたのだろうか
そして“伝説”へ
以後、彼女の消息は、いくつかの“伝説”の中で伝えられるだけだ。
まず、尼寺への隠遁説。
昭和49(1974)年11月、滋賀県大津市の地蔵寺という尼寺に、「阿部定という者が尼になりたいと、そちらに向かった」という葉書が届いた。その葉書の通り、12月の中旬になって、阿部定と名乗る老女が実際に訪れた。だがその老女は、寺が尼を受け入れていないことを聞いて、そのまま立ち去った。それが本物の阿部定であったかどうかは、今となっては定かではない。
もうひとつは、熱海生存説。
やはり昭和49年頃から、熱海の政府関係の保養所で、名を隠してひっそりと暮らしているという説があった。入所できたのは、裕福な家に嫁いだ姪の援助のおかげだという。ある女性週刊誌が、その保養所を突き止め、部屋を訪れると、確かに阿部定という名前の老女が暮らしていた。しかし戸口に現れたのは同姓同名の、実際よりも年若い別人だった。また熱海の寺で埋葬されたという話もあったが、これも真偽がはっきりしない。
さらに、山梨県の身延山久遠寺に吉蔵の位牌を納め、毎年供養をしているという話がある。実際に、昭和30(1955)年に阿部定が久遠寺を訪れ、永代供養料を払ったことは確認されている。しかし永代供養料は一度きり払えばよいのであって、毎年供養に訪れているわけではない。最後に訪れたのは、もう何十年も前のことなのだ。
いったい阿部定は、どこへ消えてしまったのか。
行方に二つの可能性
話は冒頭に戻る。
車が行き交う、盛夏の浅草通り。阿部定の墓があるという、不動産屋の情報をもとにたどり着いた寺は、樹木の陰が濃い、こぢんまりとした真宗大谷派の寺だった。庫裏を訪ねると、若い副住職が現れた。
「阿部定さんの墓? うちじゃないですね」
淡い期待が、その一言で、脆くも崩れてしまった。
「このあたりの僧侶の集まりでも、阿部定さんの話は出たことがないし、うーん、まったく聞いたことがないですね」
無縁仏に入っている可能性は?
「無縁様になる前に、お墓に入るはずですから、それもないですね」
阿部家一族の墓、あるいは昔使っていた偽名をいくつか上げて過去帳を確認してもらったが、それらの名前も該当するものはなかった。
がっかりして、浅草通りに戻る。
今回の取材の過程では、浅草通りにある別の寺で、こんな話も聞いた。
「私が住職になったばかりのときだから、25年くらい前。本山の住職の集まりで、最近の女性は強いという話が出て、阿部定の話になったことがある。そのとき、阿部定の墓地が、豊島区のどこかの寺にあると聞いた記憶がある。そっちの方を探してみたら?」
その不確かな話をもとに、豊島区内の寺院を巡り歩いたが、やはり手がかりはなにも得られなかった。
豊島区の一角には、関東大震災の後、浅草方面から行政の指導で移動してきた寺が集まっている地区がある。吉原の有名な花魁の墓を預かる寺もある一角だが、そこでも「阿部定の話は聞いたことがない」という答えだった。
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