「10年間の暗闇から抜け出せた…」 高橋ジョージが語る、別れた「ひとり娘」との再会 「今では毎日、LINEを送っています」

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子どもに会えない別居親へのメッセージ

 世の中には高橋のように、離婚後、子どもと会えない状態が長く続き、苦しむ人も数多くいる。10年待って交流が叶った高橋は、そうした親に対し、どんなメッセージを送るのか。

「毎日子どもに会いたいと思っていること。これが重要ですよね。そういう思いは、いつかどこかで子どもがキャッチするから。それから、会えた時のために常に準備をしておくことが大事だと思います。別居親が子どものことを思い出して感情的になるのはわかりますよ。残像を思い浮かべて泣いたり、配偶者を恨んだり。それもわかるけど、それだけでは駄目で、いざ、会った時のための準備をすれば、そうしたマイナスのエネルギーがそちらに向きますから」

 高橋の場合は、どんな準備をしていたのか。

「いつ帰ってきてもいいように残された娘の服や持ち物をそのまま置いておきました。もし帰ってきたら見せようと思って。実際、娘はうちに来た時に、昔の服を見て懐かしがったりして。学校の制服を見て、“これは捨てられない”なんて言っていました。昔、3人で撮った写真があるのを見て、それをLINEで母親に送ってたりもしていましたよ。写真には俺も入っているのにね……。母親は“それでも送って”と言っていたみたいだけどね。また、毎年、誕生日の時に書いてパソコンに保存していた手紙を、印刷して渡しましたよ。“渡せなかったけど、これ10年分の手紙ね”と言ったらびっくりしてたね。“10年間も忘れた日はないよ”と言うのは簡単だけど、準備をしていたからこそ、“本当なんだ。私のことをずっと思い続けてくれたんだ”って信用してもらえたんだと思います。とにかく私はこの10年間、娘にもう会えないんじゃないかと思ったことは一度もありませんでした。きっと会えると思って準備を続けてきました」

今後の娘との交流

 2週間の同居の後、娘は住み込みのバイトを見つけ、再び旅立っていった。その後の親子はどのような関係になっているのか。

「今もLINEでやり取りをしていますよ。2週間一緒に住んで、娘がもう連絡を取ってこないならそれでもいいと思っていたんです。俺が見切られたとしら、それは俺の責任ですからね。でも、幸い、交流は続いています」

 娘にはこう伝えているという。

「私は父子家庭だったんだけど父と母どちらとも頼っていた。実家が2つあるようなもの。私がそうだったけど、いつでも帰ることが出来る場所があるってことで安心するんだよ。子供って。娘も同じようにしてくれたらいいって思っている。それで娘には、“いつでも扉を開けてるから帰っておいで”って言ってる。将来のことでいろいろと悩んでるみたいだから、いろいろ世話をしたくなるけど、あまり過干渉にならないように気を付けている。そうは言ってもやっぱり心配なんで、LINEしてさ。“ごめんね鬱陶しい父親で。こんなLINEする父親いないよね”って書いて送ってる。“でも俺、一緒にいない分、すごい心配なんだよね”って」

 娘は高橋の家を去る前、ハイビスカスとレモンの木を買ってきて、これを私だと思って育ててねと言い残していった。

「だから毎日のように写真を送っていますよ。“花が咲いたよ”とか言って。部屋の中には、まだ娘の荷物が残っています。ここは、必要な時に、いつでも彼女が帰ってこられる場所だからね」

 前編では、高橋が娘と会うことになったきっかけや父娘の交流の中身について記している。

西牟田靖(にしむたやすし)
ノンフィクション作家。1970年大阪府生まれ。日本の国境、共同親権などのテーマを取材する。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『わが子に会えない』、『子どもを連れて、逃げました。』など。

デイリー新潮編集部

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