“モラハラ離婚”と言われた高橋ジョージが語る、別れたひとり娘との「10年ぶり」再会 「父の日には“パパ”と呼ばれました」

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父の日のメッセージ

「その日は品川駅まで迎えに行きました。娘が“荷物いっぱいあるから”って言うから、“いや俺の上京したときと一緒だわ”と。“俺は17だったけど”って盛り上がりましたよ。その後2週間、娘はうちにいました。毎日、私がご飯作って、スクーターの後ろに乗せて買い物に出かけたり」

 10年ぶりの水入らずの時間だった。三船美佳がかつて出演したドラマのVTRも二人で見た。

「“君のお母さん、こんな素晴らしい芝居してたんだよ”って私、感動して泣きながら、娘に言いました。その姿を見て娘はショックを受けたみたい。私が母親のことを心から尊敬していて、全然憎しみをもっていなことがわかったんですよね。娘もこれまでバラエティでの姿は見たことがあったけど、母が芝居している姿はほとんど見たことがなかったようなんです。芝居を見て、母親のことも尊敬できたみたい」

 親子にとって、いくつか節目となる日もあった。

「6月12日がうちの父親の命日なんですよ。父が亡くなったのは(別居中の)2015年だったので最期は娘と会えなかったんですよね。80になってからの孫なので、娘が生まれた時、親父は、“誕生日1週間目おめでとう。2週間目おめでとう”と毎週メッセージを送ってくるほど、バカかって思うぐらいのかわいがり方でした。そんな親父の命日の日に一緒に手を合わせられた。もう一つは16日に、父の日を祝ってくれたこと。娘からシェーバーをプレゼントされた。そこにはメッセージが添えられていて、“この空いた10年分の思い出も一緒に作っていこうね”と記されていた。これはもう、過去最高の父の日でしたね」

 そうした生活を送る中、いつしか娘は高橋を「パパ」と呼ぶようになったという。5年前は「あんた」と呼ばれていたのが、「高橋さん」、続いて「Gさん」、そして幼かった日と同じように「パパ」と呼ばれるようになったのだ。高橋は心の中でガッツポーズをした。

 その日の夜、高橋は、「山嵐のジレンマ」の話をしたという。それは「山嵐は近づき合いすぎると自らの持つトゲで相手を傷つけてしまい、離れすぎると凍えてしまう。そのうち丁度いい距離を見つける」というものであった。その話を彼が娘に聞かせたのは、これから一緒に思い出を作っていきたいと思いつつも、ひとりの大人として、干渉しすぎずに見守っていきたいという、親心の発露だったのだろう。

「“パパとお前も丁度いい距離が見つかるといいね”と話すと娘は笑顔で頷いていました」

 2週間が過ぎた頃、彼女は家を巣立つように出ていった。

「地方で住み込みのバイトを見つけ、旅立った。いずれ留学にトライしたいとも言っていました。自立して一人での生活へ挑戦してみたいという思いと、いつでも帰れる『巣』があることを確信したからだと思います」

 後編では、娘との再会を経て高橋が感じたこと、そしてその後の娘との関係について記す。

西牟田靖(にしむたやすし)
ノンフィクション作家。1970年大阪府生まれ。日本の国境、共同親権などのテーマを取材する。著書に『僕の見た「大日本帝国」』、『わが子に会えない』、『子どもを連れて、逃げました。』など。

デイリー新潮編集部

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