【光る君へ】ついに「彰子」が「定子」を超えた 重圧の日々に耐え、国母へ“覚醒”できた理由

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定子の刺激的な後宮の存在感

 一条天皇と定子が、この時代としては非常識な「純愛」を貫いたのも、定子が漢詩文をはじめとする教養が豊かだったことを抜きに考えられない。結果として定子は出家後も、周囲から白眼視されながら、一条との「純愛」路線を改めず、出家したまま敦康親王をふくむ3人の子を産み、彰子が入内して1年余りのち、24歳でこの世を去った。

 しかし、機転が利いたやりとりが日常だった定子の刺激的な後宮は、定子の死後も、『枕草子』の宣伝力も相まって、強烈な存在感をたもち続けた。

 一方、彰子の後宮は、父の道長が出自や育ちのよさを基準に女房たちを厳選し、定子の後宮との差別化を図ろうとしていたが、それが功を奏したとは思えなかった。要するに、彰子の後宮はお嬢様集団にすぎず、「香炉峰の雪」のエピソードのような当意即妙が期待できる場ではなかった。そもそも道長は、彰子に漢詩文を教えていなかった。

 彰子は、話に伝えられる定子の後宮のような雰囲気には、とてもついていけないと思ったようだ。だから冒頭で述べたように、周囲に無難にすごすように指示し、自分自身もなにも主張せず、存在感を消してすごそうと決意したものと思われる。

 しかし、12歳で入内した彰子も20歳になり、一条天皇と心を通わせるための道を模索しはじめる。志したのはやはり漢詩文だった。

みずから覚醒し努力した成果

 彰子は寛弘4年(1007)末に懐妊すると、翌寛弘5年(1008)の中ごろからか(その前年からという主張もある)、紫式部から漢文の講義を受けるようになった。『紫式部日記』によれば、彰子自身が漢文を知りたそうにしていたので、講義することになったという。

 一条天皇は『源氏物語』を女房に読ませ、「この作者は『日本書紀』を読んでいる」と、ただちに見抜いた。見抜けるだけの漢文の知識があったからだが、このような場面に触れるにつけ、彰子は自分が漢文を知らないこと、それがゆえに定子のように一条天皇の心とつながれないことを、痛感したのではないだろうか。

 こうして紫式部の講義がはじまったが、テキストに選ばれたのは、唐の詩人、白楽天の詩文集『白氏文集』のなかでも、儒教的な色彩が濃く、一条天皇の好みに合う「新楽府」だった。『紫式部日記』によれば、講義は2年続いたというから、彰子の根気はなかなかのものだった。それは「夫」たる一条天皇を知り、また、一条から尊重してもらい、「夫」との関係性を深めたいという気持ちに根差していたのではないだろうか。

 定子は母親から漢文の教養を仕込まれ、幼少期から自然に身についていた。一方、彰子は漢文を知らないコンプレックスをいだいたのちに、一定の年齢になってから、自分の意志で学んだ。

 彰子は「新楽府」を学んでから急成長している。父の道長にも厳しく意見するようになり、一条天皇の没後は父を支え、父の没後も積極的に政治に口を出し、弟の頼通らを支え、天皇の母として君臨し、長く影響力を保持して87歳で生涯を終えた。

 定子のサロンという敵わないものを意識し、重圧に耐えられない時期を経験しながら、自分の意志で努力して教養を修得するなどした彰子。24歳で早世した定子と一概にはくらべられないが、彰子はわざと存在感を消していたころが信じられないほど、存在感でも定子をはるかに超え、「国母」として長く君臨した。みずから覚醒し、みずから努力をした経験が活きたのではなかったか。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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