【SHOGUN 将軍】真田広之vs“フジヤマゲイシャ”の20年 「日本人が見て恥ずかしくないものに」という執念

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 9月15日に米ロサンゼルスで授賞式が行われた「第76回エミー賞」において、「SHOGUN 将軍」が史上最多となる18部門を受賞する快挙となった。作品賞のほか、主演の真田広之(63)は日本人として初めて主演男優賞に輝き、戸田鞠子役のアンナ・サワイ(32)もアジア系女優として初の主演女優賞受賞となった。まさに“大絶賛”という言葉がふさわしいが、振り返ってみれば真田の成功までの道のりは、ハリウッドの“フジヤマゲイシャ的表現”との闘いの歴史でもあった。

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武道館でコンサートを開いたことも

 まずはざっと真田広之の経歴を辿りたい。

 真田の芸能界デビューはなんと5歳。きっかけは子どもの頃に住んでいたのが、戦前の松竹を代表する時代劇スター・高田浩吉と同じマンションであることだった。そこに出入りしていた芸能関係者にスカウトされ、幼年雑誌のモデルからキャリアをスタートさせた。その後、劇団ひまわりに入り、子役としてデビューする。

 初出演は「浪曲子守唄」(1966年・東映)で、この映画の主演だったのが、後に真田が所属することになるJAC(ジャパン・アクション・クラブ)の設立者である千葉真一だった。

 最終オーディションで、残った候補者を千葉が順番に抱っこして、一番抱き心地の良かった真田を選んだ、という逸話が残っている。

 芸能コースで有名な堀越高校に入学後は、一時、学業に専念するため芸能活動を休止した時期もあったが、卒業後に「柳生一族の陰謀」(1978年、東映)で本格的な映画デビューを果たす。その後はアクションや恋愛など、幅広いジャンルの作品に出演。アイドル歌手として売り出していた1982年には、武道館でコンサートを開いたこともある。

 海外進出の契機となったのは、2003年公開の「ラスト・サムライ」だ。それ以前から、イギリスのロイヤル・シェイクスピア・カンパニーに入団し、英語で劇を演じるなど、早くから海外に目を向けていた真田。同作「ラスト・サムライ」のヒットを経て、2005年に活動拠点をロサンゼルスに移したが、ノー・コネクションでの渡米は苦労も多かったという。

「これは日本じゃないよ」

「渡米後、サムライやヤクザの役でいくつかの作品に出演していますが、正直パッとしない役どころも多かったですよね」

 そう振り返るのは映画評論家の北川れい子氏だ。

「これまでの出演作には、今回の『SHOGUN 将軍』とは対照的に、日本文化の描写に違和感の多い作品もありました。例えば、忠臣蔵をモチーフにした『47RONIN』(2013年)は“ファンタジー要素”も売りだったのでしょうが、それにしても日本の時代劇とはあまりにかけ離れた内容で、“サムライ”へのリスペクトを感じられるものではありませんでした」(北川氏)

「47RONIN」以外にも、「ウルヴァリン:SAMURAI」(2013年)に見られる「ヤクザ」や「ニンジャ」のステレオタイプ的な表現や、TVシリーズの「ウエストワールド」での不自然な日本語など、真田の出演作には“トンデモ”な日本表現の目立つ作品が見受けられる。

 こうしたハリウッドの“フジヤマゲイシャ的表現”に関しては、当の真田も雑誌のインタビュー記事などでその苦悩を覗かせている。

 真田がことあるごとに口にしてきたのは、「ハリウッドの日本描写の誤解解消に一役買いたい」という使命感だった。

 ハリウッドの作った時代劇としては“ちゃんと日本している”という評価の「ラスト・サムライ」ですら、製作過程では「これはやばいぞ」と感じる場面が少なくなかったと、映画誌のインタビューでも率直な感想を述べている。

<彼らもよく勉強していて、あの時代をリアルに再現してくれています。でも衣装や小道具の使い方など、ちょっとしたニュアンスで『これは日本じゃないよ』というところはあるんですよね。つまり彼らは日本と中国の微妙な違いがわからないわけです。それが今までのハリウッドの問題だったと思いますね。だから、これはやばいぞというところは、手分けしていろいろ言っていくようにして、それは最後まで貫きました。もうこれを最後にほされてもいいや! というくらい(笑)>(キネマ旬報2003年12月15日号のインタビュー記事内で)

 根底にあったのは「日本人が見て恥ずかしくないものにしたい」という強い思いだった。

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