【追悼・宇能鴻一郎氏】担当編集者が解き明かす「謎の官能作家」をめぐる3つの伝説
【伝説その3】原稿料が、日本一高かった?
宇能さんご本人が中村氏に語っていた話によると、新潮社で、最初に声をかけてきたのは、「新潮」「週刊新潮」などを手がけた伝説の編集者、斎藤十一氏だったという。「新潮」1962年3月号に、「西洋祈りの女」が掲載されている。「鯨神」の芥川賞決定発表が、1962年1月23日なので、おそらく、その直後に依頼したものと思われる(両作とも、新潮文庫『姫君を喰う話』に収録)。
「その後、週刊新潮に最初に載った宇能作品は、読み切り『肉林願望』です。1968年5月でした。まだ純文学を書いていた時期です。しかしおそらく、斎藤氏のことですから、『あなたは純文学よりも、もっと堂々と性を描くべきだ』などとアドバイスしたのではないでしょうか」(OB編集者)
「肉林願望」は、「史記」に描かれた「肉林」を、“何も着ていない男女の肉体が林立している状態”と解釈し、実際に追い求める変態助教授の話である。強いていうと性愛耽美小説……なのだが、まだ純文学の香りが漂っていることは否めない。改行も少なく、漢字でぎっしり埋まっている。
引きつづき、宇能さんは、翌1969年5月、おなじく週刊新潮に、読み切り「ゲバルト浴場の女子大生」を発表する。マゾヒストの女子大助教授が、性産業で資金を稼ぐ学生運動家の女子大生に“責められる”話である。以下、OB編集者氏の解説。
「また“変態助教授”の話か……と思いましたが、前作とちがっていたのは、全体が“一人称で書かれていたことです。冒頭が〈私は現在、或る女子大学に、助教授として奉職している者である。〉ではじまるのです。もしかしたら、ここで宇能さんは、何かをつかみかけたのではないでしょうか。現に、翌月、立て続けに3作目の読み切りを発表するのですが、これも“一人称”なのです」
それが、時代小説「黄金茶碗綺譚」だった。豊臣秀吉秘蔵の光り輝く黄金茶碗に、女性の秘部を映すと、未来が見える……との滑稽小説である。
「全編は乞食坊主の“一人称”で、冒頭は〈いえいえ、わたくしはなにも、あやしいものではござりませぬ。〉と、今度は“話し言葉”になっていました。しかも、カギカッコの会話部分や改行も多く、漢字も少なめ。前2作と比べると、ずっと余白が多くて読みやすい。次第に宇能さんが、斎藤十一氏の“要求”に応えていく変化が、見てとれます」
この変化を繰り返し、ついに宇能さんは、完全な“脱皮”をとげる。1972年2月から週刊大衆で連載がはじまった「女ざかり」が大人気となったのだ。
〈あたしって、ませているんでしょうか。/はじめて男性にからだを開かれたのが、高校三年のときなんです。/それも、とってもヘンな場所で、変った方法で。〉
一人称文体は女性の独白となり、ひらがな満載、改行だらけ……。これを週刊新潮が見逃すはずはなかった。
「さっそく、“第2の『女ざかり』を取ってこい”との斎藤十一氏の命を受けた編集者が、宇能さんのもとへ飛んでいきました。その結果、1973年から1977年にかけて、週刊新潮で生まれたのが、『ためいき』『わななき』『すすりなき』の、通称“あたし”三部作です」
〈主人がはじめての男性じゃないんです、あたし。〉~「ためいき」
〈飛行機のなかで、あたし、さっきまでの披露宴のことを思い出していた。〉~「わななき」
〈彼、帰ったんです。/あたし、おフトンの中に腹這ったまま、/「バイバイ。じゃ、また明日、会社でね」/といって、見送ったんだけど。〉~「すすりなき」
3作とも、冒頭から〈あたし〉の独白で、ひらがなと改行だらけである。
「いわば宇能さんの官能小説は、週刊新潮でタネを仕込まれ、週刊大衆で最初の花を開かせ、ふたたび週刊新潮にもどって満開になった――といえるかもしれません。もちろん、その合間に、ほかの雑誌や夕刊紙でも人気になっていたことは、いうまでもありません」
純文学から官能小説への“転向”について、中村氏は、宇能さんの、こんな言葉を覚えているという。
「『純文学では食えませんからね』と、はっきりいってました。『しかし、官能小説だって文学の一ジャンルです。ぼくは官能小説界のモーツァルトを目指してきたんです』とも。それほど次から次へとヒット作を生んで、多くの読者を楽しませてきた、確固たるプライドを感じました。“日本でいちばん原稿料の高い作家”との伝説も、あながちウソでもないような気がします」
そういえば、いったい宇能さんの原稿料は、いくらだったのだろうか。
「いまだからいえますが……」
と、OB編集者氏が、こっそり耳打ちしてくれた。
「むかし、週刊新潮編集部で、原稿料関係の帳面を見たことがあるんです。忘れもしません。初めての読み切り『肉林願望』(1968年)では、400字詰め1枚3500円でした。それが“あたし”3部作の最初『ためいき』(1973年)では5000円。そして最後の『すすりなき』(1976年)では――1万8000円でした」
伝説は、ほんとうだったのだ!
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