【追悼・宇能鴻一郎氏】担当編集者が解き明かす「謎の官能作家」をめぐる3つの伝説

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 作家・宇能鴻一郎さんが亡くなった(享年90)。1962年、『鯨神』で芥川賞を受賞、純文学作家として活躍していたが、ある時期から官能小説に“転向”。次々と人気作を発表し、大ベストセラー作家となった。多くは日活で映画化され、不況に陥った日本映画界の救世主的存在でもあった。

「宇能さんは、川上宗薫、富島健夫とともに、“官能小説御三家”などと呼ばれました。しかし、ほかの2人と比べて、様々な伝説に彩られた、ある意味で“謎の作家”でもありました」

 と語るのは、かつて川上宗薫さんなどの娯楽小説を担当してきた、新潮社のあるOB編集者である。いったい、どんな伝説なのだろうか。

【伝説その1】その姿を見たものが、誰もいない?

〈宇能鴻一郎は名のみ高く、その姿を見たものがいない唯一の文士である。(略)宇能の読者は何十万人いても、その肖像を見たものはまあ一人もいない。〉

 これは、名コラムニスト、山本夏彦の文章である(「夏彦の写真コラム」~週刊新潮1992年1月2・9日号)。

〈応接間には低くクラシック音楽が流れ、宇能はオペラ愛好の達人だという。(略)その声は朗々たるもので、明朗闊達な好紳士だそうだ。ただ文壇の会合には全く出ない、テレビにも出ない、人前に顔をさらしたくない。〉(前同)

「それは少々大げさですが、たしかに宇能さんは、あまり表に出ない方でした。富島健夫さんは自伝的青春小説や、人生相談の回答などで、その人柄が広く伝わっていました。川上宗薫さんも銀座へよく出かけていたし、編集者たちとピンポン野球を楽しんだりするのが好きでした。それに比べると、宇能さんは、家にこもっているような印象が強かったですね。川上さんはよく『宇能は、オペラ貴族だからなあ』なんてからかってましたよ」(OB編集者氏)

 そんな宇能さんの、晩年の“素顔”を知る編集者がいる。新潮社・新潮文庫編集部の中村睦氏である。中村氏は、『姫君を喰う話』(2021年8月刊)、『アルマジロの手』(2024年1月刊)の、2冊の傑作短編集を生んだ、宇能さんの“最後の担当編集者”なのだ。どちらも純文学作家時代の異色短編集である。

「宇能先生は、『銀座も赤坂も行きつくした。どこも面白くない。自分の好きな店にしか行きたくない』といっていました。そこで、仕事場に近い横浜周辺のお気に入り6~7店にしか、行かなくなったようです。どんなに、こちらがほかのお店にお誘いしてもだめでした。つまり、外を出歩かないわけではなく、むかしから決まった店にしか行かないので、姿を見たひとが少ないのだと思います」

 中村氏が会ったころ、宇能さんはすでに80歳代後半である。

「しかし、まったく年齢を感じさせませんでした。大皿料理をテーブルからあふれるくらい並べ、宇能先生専用の、30cm以上はある巨大なビール・ジョッキで、いつも2~3杯、軽々と呑んでおられました。気分が乗ってくると、ほかのお客さんのことなど気にもかけず、オペラの一節を朗々とうたいだす。それでいて2時間半くらいでサッと終わる。とても気持ちのよい宴席でした」

 しかしそもそも、なぜ、中村氏は、宇能さんの作品集を担当することになったのだろうか。

「実は、篠田節子先生から、『わたしは高校生のころ、宇能鴻一郎さんの純文学にはまっていた。どれも素晴らしい作品だった』とうかがったんです。そこで興味をおぼえ、往年の純文学作品を読んでみました。そして、あまりの面白さと完成度の高さに、驚いてしまいました。多くの作品の根底にあるのは、性欲と食欲に翻弄される人間でした。そこで、短編集の企画案をつくり、一度ご相談にうかがいたいと、手紙を出したんです」

 すると、すぐに本人から電話がきた―― 「かまいませんよ、わたしは。しかし、編集者に会うのは、月に1回、土曜日の午後と決めています。それでよろしければ、お出でください」。

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