警察OBが「この小学校は最も不審者が侵入しにくい」と太鼓判を押した理由 全員が当事者になる「みんなの学校」の意義【石井光太×木村泰子】
映画「みんなの学校」や著書『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』などで知られる、大阪市立大空小学校初代校長の木村泰子さんは「すべての子どもに居場所を」と訴えている。なぜ子どもは学校で自分の居場所を確保できないのか。『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(新潮社)を上梓したノンフィクション作家、石井光太さんと木村さんがとことん語り合った。
(7月17日に行われたウェビナー「木村泰子先生に聞く 先生と親で考える<子どもたちの悲鳴> 『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(石井光太著)刊行記念」をまとめ、編集しました) 【前後編の後編】
運動会でしか経験できない学び
石井 ある精神科医の先生で自尊心を2つに分けて考えている方がいらっしゃいました。1つが基本的自尊感情、もう1つが社会的自尊感情。どういうことかと言いますと、まず、基本的自尊感情というのは、学校で友達と一緒に遊ぶ、スポーツをする、演劇をする、そういう共有体験をすることによって得られる感情のことです。自分は生きてていいんだという、生きることに対する漠然とした喜びみたいなもの、自己肯定感、それを基本的自尊感情って言うそうなんです。
この基本的自尊感情というのをベースにして築いていくのが社会的自尊感情です。これは、属するコミュニティの中で評価されることです。例えば、リレーの選手に選ばれましたとか、英検で準2級とりましたとか、そういったことですよね。でも社会的自尊感情を得る評価って、社会や時代が変わると通じなくなる。つまり、社会的自尊感情だけを作ってしまうと、時代とかコミュニティが変わった瞬間に本人が壊れてしまう。
取材の時に思ったのが、社会全体がこの基本的自尊感情を育むことをおろそかにしているのではないか、ということでした。小学校が運動会を短くするのは全然構わないんだけども、他の学年との交流を全く閉ざした状態の中で開催している。学芸会も観客がいない状況でやっている。それでは面白くもなんともなく、先生からの評価(社会的自尊感情)は得られても、基本的自尊感情が育まれない。その点、先生はどういう風に思われますか。
木村 他者の評価のみで教育が行われるのはとんでもないこと。評価はまず自己評価であるべきですよね。もちろん他者評価はあっていい。でも、それが上位にきたらあかんのですよ。全ては自己評価がベースになって、その上に他者評価が来れば子供は納得して他者評価を自分のものにしていくんですよね。
運動会や学芸会の例がありましたけど、結局、目的が重要なんですね。何のために運動会や学芸会をするのか。運動会でしか経験できない学びをいかに得るか、でしょう。そのために、どんな運動会をすればいいのかを考えていくのが重要です。
目に見えないところを育てる
石井 小学校の運動会だと、例えば9時から10時が1、2年生、10時から11時が3、4年生、11時から12時が5、6年生という風に決まっているところがあります。その各1時間で運動会をやっているんだけども、他の学年はそれを見学することなくずっと授業をしているんです。そのため運動会の音を大きくできず、かけっこでBGMを流せない。運動会って別の学年の子を応援して、「ああいう先輩みたいになりたいな」といった、人間関係や目に見えないところを育てていくものですよね。学校の先生たちはそういう風に言いたいんだけれども「働き方改革だ」「運動会の改革だ」という言葉だけが大きくなってってしまって、言えない。すると、親にとっても子どもにとっても先生にとっても得にもならないような運動会が行われてしまう。
木村 学校という組織に絶対あってはいけないものは3つやと断言しています。1つは「前例踏襲」です。もう1つは「同調圧力」。同調圧力は、30人子どもがいて、29人賛成して、1人嫌やって言っているのに強制したらその子は学校に行く意味を見つけられなくなります。最後は「ヒエラルキー」。先生の言うことを聞きなさい、親の言うことを聞きなさい、校長先生の言うことを聞きなさい、では何も変えられない。ダメなところに気づいているのに行動を変えへんのは、それは子どもに見せる姿ちゃいますよね。
石井 泰子さんが「自分の子どもを自分では育てなかったけど、周りの大人が育ててくれた。これでいい」というようなことをご自身のお子さんについて書いてらっしゃいましたよね。いろんな取材をする中で、良い学校、良い保育園は一律、いろんな大人が介入して、大人と子どもたちが触れ合う環境があります。実の親と実の子ども、1対1になってしまうと、いい意味でも悪い意味でも、密室の中にいるような関係性になってしまう。
特にコロナ以降、他の人と出会う機会が減っていると思います。他の友達の家に行ったことがない子どもっていうのがもう当たり前になっているんですね。友達の家に行くとお父さんが思いもよらぬ格好で出てきたとか、お母さんがファンキーだとか、全然違う世界が見えて、自分の考え方だとか視野を広げてくれると思うんですけども、いまは地域の大人が子どもと接して、関わることができない。下手すると変質者扱いされてしまう。地域の大人がどうやって小学校の子どもに関わるのかということに対して、もしご意見があれば教えていただければと思います。
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