小学校で飛び交う「こいつとは無理」「キモい」の声…なぜ学校現場では“多様性”よりも「分断」と「格差」が助長されてしまうのか【石井光太×木村泰子】

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多様性と逆行する教育現場

木村 その通りで悪い表現で言えば、子どもに色がつけられているんです。例えば、たまたま一緒の幼稚園から来た子どもが1年生でお隣同士に座った。すると、その女の子が隣の男の子にずっと注意をしているんです。手はお膝でしょ、お行儀が悪い、背中ピン! とか。私が「ねえねえ、この子のお背中、ピンになってない、おててがお膝に行ってなくってさ、なんか困ることがある?」と聞いたら、「別に」って言うんですね。「じゃあ、なんでそんなふうに言うの」って言うと、すごく怒った顔して、「校長先生、嫌い」って言うんですね。なんで嫌いか教えてよって言ったら、「幼稚園の先生はいつも私に“この子に教えてあげてね”って言ってて、私が教えてあげたら、先生は私に“ありがとう。あなたのおかげで私はとっても楽になったわ。ミニ先生ね”って言うの」と。つまり、子どもが「先生の言うことを聞ける子」「先生の言うことを聞けない子」に分断されてしまっているんですね。

 ただ、そうした子どもも小学校に来たら1ヶ月もかからないうちに変わります。じゃあ、どうして子どもが変わるのか。この点をまさに石井さんがこの本の中に書かれてるんですよ。つまり、環境を豊かにしていくこと。大空小学校の子どもたちは空気って言うんですけど、自分が吸う空気が安心できれば、自分らしさを出して学び始める。人は違っていることが当たり前やでって子どもが感じ始めると、自分とお友達の違いを格差にするんじゃなくって、リスペクトしあっていくんですね。

石井 学校の先生たちが口を揃えていたのが、子どもたちが「違い」を認められないということでした。上辺だけのちょっととした違いがあったら「もうこいつとは無理」「キモい」となってしまって、小さな交友グループがさらに小さくなっていく。社会自体が多様性を認めようとか、多文化共生だとか言っているにもかかわらず、実は子どもたちがそう考えられない。それは小学校だけではなくて、中学、高校でもそういう声が目立ちます。多様性を認めていくという社会の風潮と逆行した状況が学校で生まれているのはなぜなのでしょうか。

何のために学校があるのか

木村 学校現場で多様性って言いながら、一方で、「規律を守らせなくてはダメなんだ」という指導に先生が走っているのではないでしょうか。現場で一番不足してるのは、子どもへの問いかけです。それにもかかわらず、子どもへの指示、号令、命令を的確に出せる教員にならなくては、という圧力がある。指示、号令、命令を出すばかりでは子どもの声は聞けませんよね。

石井 先生だけではなくて、家庭でも親がやらせ、指示を出す。親は子どものプロデューサーになって、それに従うのが子どもになってしまっています。学校も教室運営をしなきゃいけないので、やはり子どもたちに対して、こうしなさい、と指導する。地域社会もそうですよね。「ここではこれはしちゃいけません」「こっちは来ちゃいけません」と。すると子どもは大人の顔色を窺うということは非常に上手になっていくんだけども、自分で考えてどうするかということがなかなかうまくいかない。先生方も危機感を抱きながらも、なかなか改善することができない。そういう苦悩がみなさんおありのようでした。

木村 すごくわかります。

石井 やっぱり教育現場を変えるって難しいものなのでしょうか。

木村 全然難しくないんですよ。

 地域の学校に通えば、どうしても子ども同士がぶつかって、喧嘩をしたり、トラブルが起きます。このトラブルは先生たちを困らせる。なぜなら、子どもの向こう側に保護者がいて、保護者が「うちの子が殴られた、どういうことですか!」と学校に怒鳴り込んでくる。すると、先生たちは独りぼっちになってしまい、若い先生であればあるほど、1年も経たずしてやめてしまう。

 問題はそのことを子どもが見てるんですね。子どもはどう感じるかって言うと、「自分たちが言うこと聞けへんから、親たちがあの先生にいっぱい文句言って辞めさせられた。自分たちが言うこと聞いてたら、あの先生は辞めんでよかったのに」子どもはこんなふうに思っているんです。

 何のために学校があるのでしょうか。学校はあるもんじゃなくって作るもんやってことです。全ての子どもが自分の学校を自分で作る。保護者は自分の子どもが学んでる学校を自分で作る。地域住民は地域の宝が学んでる学校を自分で作る。私たち教職員は自分が働く学校を自分で作る。つまり、全ての人が当事者になる。全ての人が当事者になればどんないいことがあるかって言うとね、何かが起きても人のせいにしなくなるんですね。

 後編『警察OBが「この小学校は最も不審者が侵入しにくい」と太鼓判を押した理由 全員が当事者になる「みんなの学校」の意義』では、学校組織をいかに「地域社会」へと変えていくか、教育現場のさらなる問題点を指摘している。

石井光太
1977年、東京都生まれ。海外の最深部に分け入り、その体験を元に『物乞う仏陀』を上梓。斬新な視点と精密な取材、そして読み応えのある筆致でたちまち人気ノンフィクション作家に。近年はノンフィクションだけでなく、小説、児童書、写真集、漫画原作、シナリオなども発表している。主な作品に『絶対貧困』『遺体』『43回の殺意』『「鬼畜」の家』『近親殺人』『こどもホスピスの奇跡』(いずれも新潮社)『本当の貧困の話をしよう』『ルポ 誰が国語力を殺すのか』(ともに文藝春秋)『教育虐待一子供を壊す「教育熱心」な親たち』(ハヤカワ新書)など。最新刊は『ルポ スマホ育児が子どもを壊す』(新潮社)。

木村泰子
大阪市出身。武庫川学院女子短期大学(現武庫川女子大学短期大学部)卒業。「みんながつくる みんなの学校」を合言葉に、子ども、保護者、地域住民、教職員一人ひとりがつくる大阪市立大空小学校の初代校長を9年間務めた。「すべての子どもの学習権を保障する学校」として、その取り組みを描いたドキュメンタリー映画「みんなの学校」が話題に。2015年春に退職、現在は全国各地での講演活動、教員研修、執筆などで多忙な日々を送る。著書に『お母さんを支える言葉』『10年後の子どもに必要な「見えない学力」の育て方』『「ふつうの子」なんて、どこにもいない』など多数。

デイリー新潮編集部

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