自民党総裁選に敗れて「北海のヒグマ」は“怪死”を遂げた…中川一郎が「最期の食」に選んだ“タンメン”の味

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 朝日新聞の編集委員・小泉信一さんが様々なジャンルで活躍した人たちの人生の幕引きを前に抱いた諦念、無常観を探る連載「メメント・モリな人たち」。今週は政治家・中川一郎(1925~1983)です。「北海のヒグマ」と呼ばれ、初代の農林水産大臣や科学技術庁長官などを経て、1982年10月の自民党総裁選の予備選に立候補するも落選。翌年、北海道・札幌で自ら命を絶ちました。中央政界での輝かしい経歴は知られていますが、中川の地元・北海道東部の住民の声を紹介しながらその人生に迫ります。

自民党総裁選で思い出す人

 人はその最期を迎えるにあたり、何を食べ、何を飲むのだろう。まして、自殺する覚悟を胸に抱いた人は、最期に何を食べるのか。

 本欄にも何度か登場した小説家・山田風太郎(1922~2001)は、著書「あと千回の晩飯」(角川文庫)に老いゆく心境を淡々と飄々と綴った。なかなかそんな風に描けるものではない。悩み、もがき、苦しみ、今日は元気でも、翌日は陰々滅々とした文体になってしまうのではないか。

 俳人・正岡子規(1867~1902)が脳裏に浮かぶ。「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。秋のひんやりした空気を感じる句。横臥したまま好物の柿を貪り食う餓鬼のような子規は、こう問うているのかもしれない。

 お前はそこまで我執(がしゅう)を貫けるか。そこまで生きる気力を貫けるのか。

 闘病中の我が身に問うてみても、返す言葉すら見つからない。

 さて、日本は8月以降、自民党総裁選で、にぎにぎしくも――逆説的な表現ながら白々しくも、盛り上がったかに見えた。要するに、どこかむなしいのである。あーあ、相変わらずだな。本当に自らの政治家生命を賭けてまで総裁選に臨んだ人はいるのだろうか。

 だが、今から31年前の1983年1月9日、厳寒の北の地で、自ら政治生命を絶った政治家がいたのを覚えているだろうか。北海道東部の広尾郡広尾町出身、中川一郎である。亡くなった日、中川は札幌のホテルにいた。

 当時の様子を取材したルポライターの鎌田慧(86)によると、中川はルームサービスで好物のラーメンを注文しようとした。

「腹減ったなあ。おい、ラーメンでも食うか」

 あいにく、ルームサービスのメニューにラーメンはない。そこでタンメンを注文した。部屋にいたのは中川夫妻のほか、秘書でのちに衆院議員となる鈴木宗男(76)、友人で中川の「後援者」といえる佐藤尚文。計4人だった。

 鈴木は食欲がなかったのかタンメンを食べなかった。夫人の貞子(1930~2021)は、こぼれていたタンメンに手をつけなかった(中川は恐妻家と言われたが、このエピソードが物語っているように思える)。

 ここからは私の想像だが、タンメンをつまみに黙々と酒(水割り?)を飲んでいた中川の姿が浮かんでくる。ズルズル、ズルズル……。何だか味気ないが、麺を男2人がすする音がスイートルームに響く。

 いずれにしても、中川は前年の自民党総裁選で敗れ、相当ショックを受けたのだろう。当時の総裁選は、「生死」を賭けた壮絶な戦い。第4位と最下位となった中川の政治生命は絶たれたに等しかった。政治の世界における仁義なき「メメント・モリ(死を想え)」である。

 タンメンの具をつまみに一緒に酒を飲んだ佐藤は部屋を出る。まさに「刎頸(ふんけい)の友」である。残された中川はどんな思いだっただろうか。夫人とはどんな話をしたのだろう。窓の外は白い雪景色が広がっていたのだろうか。1月の北海道は文字通り極寒、厳寒である。

 ワイシャツからネクタイを外した中川の顔には、疲労の影が色濃くにじんでいたに違いない。翌日、変わり果てた中川が発見された――。

 豪快な外観で「北海のヒグマ」と呼ばれ、超タカ派としてすら知られたれた中川は、同じくタカ派として知られた石原慎太郎(1932~2022)の元ボスだったという説もある。彼は一体どんな政治家だったのか。

「最期の食」はタンメン。白菜や人参、玉葱などの野菜がたっぷり乗り、塩味を効かせた麺食。ラー油をたっぷりかけて、酒のつまみに合わせたのだろう。庶民派を掲げた中川らしい。

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