戦後の大衆を巻き込んだ空前の“株ブーム”に冷や水 「スターリン暴落」を予測した“伝説の相場師”が明かす「読者よ、退却の時機は近づいた」の舞台裏【昭和の暴落と恐慌】
第2回【〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実】のつづき
8月に起こった日経平均株価の乱高下では、4451円28銭の下落幅、12.4%の下落率に肝を冷やした人も多いだろう。ただし当然ながら、これは「日本初の大暴落」ではない。過去には大暴落をきっかけとした恐慌にも見舞われているだけに、投資に積極的ではない層も株価関連のニュースは気になるところだ。
本シリーズでは、昭和初期の日本が見舞われた恐慌と暴落を振り返る。第3回は日経平均株価の下落率が初の「最大」を記録した1953(昭和28)年3月の「スターリン暴落」。当時の日本は戦後復興と朝鮮戦争の特需による好景気が続き、兜町が空前の株ブームに沸いていた。景気実態を超えていたとされる過熱相場に冷や水を浴びせたのは、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンの死去。特需の終焉予測が株価の大暴落につながった。
この暴落を予言したといわれているのが、2016(平成28)年4月に死去した“伝説の相場師”こと石井久氏である。“石井独眼流”と呼ばれたその予測は、暴落の数週間前に「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」というタイトルで兜町の新聞を飾っていた。ただし、石井氏はスターリンの死を予測していたわけではないという。生前に語っていた舞台裏とは。
(全3回の第3回:「週刊新潮」1989年2月9日号より「予言されたスターリン暴落の勝者・敗者」をもとに再構成しました)
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特需による好景気だった昭和28年
当時、日東証券(後の三洋証券)の社長だった土屋陽三郎氏(1999年1月6日死去)は、石井氏を高く評価していた。
「現在もそうですが、当時の石井さんは鋭い感覚を持った人でした。彼は証券会社の歩合セールスマンをしていて、その間、1年くらい株式新聞の記者をやった。石井さんが書くものは、結構ショッキングな見出しのついた記事で、しかも内容は割合的を射ていた。それで株式新聞の発行部数を伸ばし、彼自身は、講演などであちこちからお呼びがかかっていました」(土屋氏)
1953(昭和28)年といえば、朝鮮戦争の“特需”の影響もあって、好景気が続いていた。兜町も空前のブームに沸いていた。例えば2月10日付の朝日新聞はこう書いている。
〈去年の正月から目立ちはじめた“一般大衆”の株式投資熱は今年に入っていよいよ勢いを増し、市場は空前のブーム状態を示すに至った。こうして去る2日には半日わずか3時間の立会で東京証券取引所の出来高は2200万株を突破、このため証券従業員は来る日も来る日も連続徹夜、これでは殺人相場だと申入れ、9日ついに取引所の立会を臨時に停止するという前例のない事態にまで追い込んでしまった〉
そして、〈株式投資が競輪、パチンコに代って一種の「流行」的な色彩を帯びてきた〉とも書いている。兜町が沸きに沸いていたことが想像できる。
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