〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実【昭和の暴落と恐慌】

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兄弟で少ないご飯を競い合って食べた

 再び、当時の新聞に目を戻すと、

〈夜逃げの親達を小学校へ来て探す 米屋や酒屋に脅かされる児童 行方不明の転校続出〉(1930年6月21日付)

 さらに農村でも、悲惨な光景が繰り広げられていた。

〈牛乳の飲める子は 百人にタツタ三人 思ひの外な全国農村の惨状〉(同年6月7日付)
〈廿六ヶ村の農民代表 我等を救へ と各省歴訪〉(同年7月11日付)
〈泣くに泣かれぬ 青物のメチャ取引 牛車一台に積んで僅か十円〉(同年7月21日付)

 1918(大正7)年生まれで、現在、名古屋で機械加工会社の会長を務める山口義正氏(90)は、農家の9人兄弟の4番目で、

「とにかく粗食だったな。両親は朝早くから夜遅くまで実によく働いたが、カツカツの生活で、兄弟で少ないご飯を競い合って食べるのを、親は悲しげに見ていた」

 また、前出の岩井氏の記憶では、

「満州事変(1931年)の頃、『農業恐慌』だと、新聞で騒がれていましたね。特に東北地方で、多くの欠食児童がいて困り果てているだとか、多額の借金を抱えて、ついには娘さんを身売りに出さざるを得ない困窮に喘いでいたとか」

「一村の少女全部が姿を消す」との報道

 実際、当時の紙面にはこうある。

〈娘の身代金で 官地を払ひ下ぐ 一村の少女全部が姿を消す 山形県奥地の悲劇〉(1931年10月30日付)
〈『青春のない村』囚人以下の生活 死線にあえぐ 娘売る山形の寒村〉(同年11月12日付)

 他にも、1932年2月号の「中央公論」に掲載された、作家の下村千秋氏による、その名も「飢餓地帯を歩く」と題したルポには、青森のある村の老婆の、こんなもの悲しい囁きが紹介されている。

「実は今日は、娘を、青森市のごけ屋(私娼の家)へ置いて来たのです」

 このルポが発表された同年、やはり小津監督は名作を世に放っている。「生れてはみたけれど」――。

 前出の塩田氏によれば、「暗黒の木曜日」で深刻化した日本の不況は、金輸出再禁止を受けて終焉に向かい始めた。

「1931年末、犬養毅内閣下、高橋是清蔵相主導で金輸出再禁止が決定されたことから収拾に向かい始めました。その高橋によって、第二次大戦以前での日本経済最良の時期と呼ばれた35年を迎えることになります」

 ***

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デイリー新潮編集部

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