〈一村の少女全部が姿を消す〉〈娘売る山形の寒村〉…未曾有の「世界恐慌」が日本にもたらした“失業地獄”の惨酷な現実【昭和の暴落と恐慌】
深刻に受け止めていなかった日本
1929年の日本の政治情勢は、4月に共産党員一斉検挙、前年の張作霖爆殺事件の処分に関連し7月、田中義一内閣が総辞職。新たに「男子の本懐」で有名な浜口雄幸内閣が誕生したが、12月には思想対策の強化を図るため、憲兵司令部に思想研究班が編成されるなど、1931(昭和6)年の満州事変へと続く道をひた走っていた。
経済に目を向けると、発足した浜口内閣は、金解禁による、国際金本位制への復帰を志向する。すなわち、世界経済への門戸開放、多くの国民もこれに賛同し、金解禁を歓迎する空気に包まれていた。実際、1929年10月26日付の朝日新聞は「暗黒の木曜日」を、〈ニューヨーク株式市場大混乱〉と報じているものの、米英の利下げを受けて、
〈総ての意味で日本へは好影響 大蔵当局談〉(同年11月2日付朝日新聞、以下新聞引用は同紙)
とする紙面から、さほどの切迫感は伝わってこない。
「ウォール街の暴落のニュースが日本に届いた時、最初、日本はあまり深刻に受け止めてはいませんでした。景気循環の波に従って米国経済の長期好況が終わり、その反動がやってきただけ、という程度の認識だったんです」(『金融崩壊』の著書があるノンフィクション作家の塩田潮氏)
デフレ不況で失業地獄
しかし、翌1930(昭和5)年1月11日、金解禁が実施されると、
「『荒れ狂う暴風雨に向かって雨戸を開け放した』と評され、デフレ不況に陥っていきます。何十万人もの失業者が溢れました」(前出の中村名誉教授)
確かに、年が変わると、次第に庶民の生活が困窮していく様を綴った記事が増えていく。まずは、深刻な就職難について。
〈校門を出る若人に暗い影さす就職難 官庁も会社も皆人減らしに〉(1930年1月25日付)
〈珍業「大学出のくづ拾ひ」高女出も交るこの失業地獄〉(1930年6月25日付)
1914(大正3)年生まれで、世界大恐慌発生当時、中学生だった猪木正道・京都大学名誉教授(93)が振り返る。
「私と2歳違いの叔父は、京都大学の前身である三高を出て、恐慌後に就職をしました。しかし、就職難で希望の会社に入れず、やむなく外資系の会社に入社したんです。そこでの過労、そして栄養失調もあったのでしょうか、ほどなく亡くなってしまいました」
また、1918(大正7)年生まれで、日本画家の堀文子氏(90)も、当時の学生就職事情を身近で実感していた。
「私の父は歴史学者で、中央大学の教授を務めており、我が家にも学生さんがたくさん来ておりました。そのため、大学を出てもどこにも就職できないと、学生さんが騒いでいたのをよく憶えております。世の中、とにかく不景気、不況で、私の従兄弟も就職が決まらないと困っておりました」
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