【光る君へ】「彰子」に子を産ませた結果… 一条天皇は天皇の座も命も失った

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懐妊しない彰子に道長の焦り

 一条天皇(塩野瑛久)の顔を、入内して7年になろうという中宮彰子(見上愛)は、しっかり見ることができない。 NHK大河ドラマ『光る君へ』では、第34回「目覚め」(9月8日放送)でも、そんなふうに描かれている。

 寛弘3年(1006)7月7日、奈良の興福寺の僧兵たちが大極殿に押し寄せたとき、藤原道長(柄本佑)は剛毅に対応して追い返したが、一時、彰子は一条天皇がいる清涼殿に隠された。そのとき一条は彰子にさまざまに言葉をかけて、「顔を上げよ。そなたは朕の中宮である。こういうときこそ胸を張っておらねばならぬ」と伝えたが、彰子は一条の顔を少し覗いては、不安げにまた下を向いた。

 入内させた長女がそんな様子だから、道長は焦りを隠せない。道長が彰子を入内させたのは、彼女に皇子を産ませ、その皇子が即位した際、外祖父として君臨するためである。しかし、数え12歳で入内させた彰子はこの時点でもう19歳で、そろそろ懐妊してもいい年齢だが、その兆候はない。

 道長は彰子の女房となったまひろ(吉高由里子、紫式部のこと)を訪ね、「なんとかならぬか?」と助け船を求めたが、まひろは「中宮様の御心が帝にお開きにならないと、前には進まぬと存じます」と答える。そして、「どうかお焦りになりませぬように」というが、道長は「焦らずにはおれぬ」と、本音を隠さなかった。

 道長は長男の頼通(渡邉圭祐)に、「このごろ不吉なことが続き、中宮様のご懐妊もないゆえ、吉野の金峯山に参ろうと思う」と、大きな決意を告げた。これは単なる社寺への参詣ではなかった。修験道の霊山、奈良県吉野町の金峯山への参詣は、事前に75日から100日も一定の場所に籠り、酒も魚も色も断って祈り続ける精進潔斎をするのが必須だった。

敦成親王の誕生をよろこばなかった

 しかも、標高1,719メートルの山上ヶ岳を中心としたこの山には、鎖を伝わって登らなければならないほどの難所もある。そこに何人もの高僧をふくむ大勢の僧侶や人足を引き連れ、大量の献上品を携えて登ったのである。

 寛弘4年(1007)8月11日に山頂に着いた道長は、多くの経典を奉納し、連れてきた高僧たちに数々の読経をさせ、彰子の懐妊を祈った。最高権力者の道長にそこまでされたなら、一条天皇はなにも行動に移さないわけにはいくまい。おそらく意識して彰子に近づいたものと思われる。その年の暮れに彰子は懐妊し、翌寛弘5年(1008)9月11日、無事に敦成親王を出産した。

 むろん、道長は狂喜した。『光る君へ』で秋山竜次が演じている藤原実資の日記『小右記』には、道長は仏神の助けによって出産を平安に遂げられたと語り、よろこぶ様子は言い表せないほどだった、という旨が記されている。また、『紫式部日記』によれば、道長が敦成親王を抱き上げたとき、親王が粗相をして道長の着物を濡らしたが、道長は「親王様のおしっこに濡れるとはうれしい」と、よろこんだという。

 だが、父親である一条天皇がよろこんだという話は、どの史料にも記されていない。一条にはすでに、亡き皇后定子が産んだ第一皇子の敦康親王がいた。それまで皇后が産んだ第一皇子が即位しなかった例はなく、彰子が皇子を産まなければ、問題なく敦康親王が将来の天皇になっただろう。ところが、道長の外孫である敦成親王の誕生は、一条天皇にやっかいな問題を投げかけることになった。

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