80年代の「オメガトライブ」は「そろそろ潮時」で解散…杉山清貴が移住先で受けた「スタジオにショットガン」の衝撃

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ソロの自分を想像できなかった

 結果的に3年弱となったオメガトライブとしての活動。「メンバーのみんなで何となく年月を重ねていくうちに」バンドを解散する話が誰からともなく出てきたと振り返る。

 杉山自身も「人の楽曲でおいしい思いはしたけれど、アルバムの中で数曲を書いたとしてもアレンジは別の人。それではやはりバンドとしての色が出せない」という思いを抱えていた。

「このまま林さんの楽曲で行って。時代が変わってヒットパターンが変わったらどうなのかな。ぼちぼち潮時かなと」

 当時の杉山らは20代半ば。「今やっている音楽じゃないものをやりたいのなら、今のうちに形にしておいた方がいい」「30歳になるまでに何かしら形にしておきたい」という考えは強まっていく一方だった。

 杉山自身は「バンドが好きでバンドがやりたくて音楽をやっていた。自分の作品を発表したいという気持ちも全くなく、バンドの中で楽しくやれればいいかな」という考えもあり、解散後は別のバンドをつくろうかなというノリでいた。だからこそ、ソロデビューの話には「慌てた」という。

「ソロアーティストという感覚自体が分からなくて。1人で何かをやるということが想像できなかった」

米ロサンゼルスに「住むしかない」

 ソロではデビュー曲の「さよならのオーシャン」をはじめ、自身でシングル曲を書くことになったが、オメガトライブ時代に「がんばって曲を書いててよかった」という。

 オメガトライブのオリジナルアルバムの4枚目「ANOTHER SUMMER」では2曲、最後のアルバム「FIRST FINALE」では3曲、杉山作曲の曲が収録された。「プレッシャーはあったけど、楽曲の作り手としても認めてもらえてるんだな、と感じていた」という。

「(当時の曲は)もう林さんの見様見真似。ギターを弾きながらコード進行はこうなのか、とか思って。その中から吸収していったものをこういう風に書けばいいかな、というものを形にしました」

 ソロデビュー以降は、当時好きだったアーティストや洋楽のニュアンスも交えたような曲もどんどん書けるようになっていった。

 1989年、アレンジャーの新川博の紹介で、米ロサンゼルスでレコーディングを初めて行った。翌年には米キーボードプレーヤーでアレンジャーのトム・キーンに直接連絡を取って、レコーディングのためロスに赴いた。「好きな音楽があるロスに住んじゃおうかな」という考えはすぐに「住むしかない」と変わり、弁護士を紹介してもらってグリーンカードを申請、取得することができた。

 しかし1992年春にはロサンゼルス暴動が起き、ロスは騒然とした雰囲気に。暴動後のレコーディングスタジオにはショットガンが置かれるようになるなど、杉山は世の中の流れが変わったことを実感していた。

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 ソロアーティストとなり、米国で時代の流れを感じた杉山。第2回【「今年65歳だし」「いいんじゃない?」LINEで決まった「杉山清貴&オメガトライブ」2024年ツアー 先に広がる無限の可能性とは】では、復活した杉山清貴&オメガトライブや、そこで当時の楽曲以外は演奏しないと決めた理由などについて語っている。

デイリー新潮編集部

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