「自民党総裁選」大乱立なのに「公明党代表選」出馬は1人…「池田名誉会長」没後初の代表選に見る「公明党」衰退
代表選などない
「1961年に公明党の前身である公明政治連盟が設立されて以来、国政選挙の立候補者はもちろん党の代表まで、最終決定権は事実上、公明党の支持母体である創価学会の池田大作名誉会長(1928~2023)にありましたからね。公明党の規約には、代表の《選出方法は、投票による選挙とする》とはあるものの、立候補者は常に1名。実質的に選挙など行われたことはありません」
与党でありながら“密室政治”が行われてきたわけだ。山口代表も池田氏のお気に入りだったのだろうか。
「山口さんは90年に初めて衆院選に立候補した時から、次期代表候補との池田氏の意向があったんです。東大卒の弁護士ですからね。だからこそ、86年まで党代表を務めた竹入義勝さん(1926~2023)の地盤であった中選挙区の旧東京10区から立候補できたのです。もっとも、96年と2000年の衆院選に小選挙区の東京17区から立候補したものの2度続けて落選し、参議院に鞍替えしました。09年の衆院選で太田昭宏代表(78)はじめ公明党の幹部全員が落選したことで、山口さんに代表のお鉢が回ってきた。最初から池田氏の意向が反映されていたのです」
池田氏は10年5月の本部幹部会以降、表舞台に出なくなった。その後も山口代表で15年も続いたのはなぜだろうか。
ようやく切り出せた
「党代表は激務と言われています。山口さんもこんなに続ける気はなかったと思います。すでに一昨年の党大会で、定年の69歳を超えていましたから。しかし、創価学会、とりわけ上層部からの評価は抜群でした。『池田名誉会長の意向』と創価学会から言われれば、断ることもできなかったのでしょう。創価学会の実働部隊である女性部からも、その容貌と人柄で“なっちゃん”と慕われていましたしね。昨年、池田氏が亡くなったことで、ようやく山口さんから代表辞任を切り出すことができたのでしょう」
ならば、石井幹事長が代表となれば、公明党史上、池田氏の意向を受けていない初の代表となるのだろうか。
「そういうことになりますね。もっとも、石井氏は失言と発言力のなさが心配されています。彼は次期衆院選小選挙区の“10増10減”に伴う自民との選挙協力協議で調整力不足が露呈、しかもその際、『自公の信頼関係は地に落ちた』とまで言い放ち、連立関係が崩壊しかけました。また、講演会で『国土交通相の時代は熊本地震などあったが、一番の災害は森友事件』などと発言し、謝罪に追い込まれたこともありました」
石井幹事長とはどんな人物なのだろう。
「東京出身で東大工学部土木科を卒業。親も創価学会員で学生時代は『小学校に入る前から戸田(城聖)先生(1900~1958=創価学会2代会長)の講義を母の背中で聞いていた』と自慢していたそうです。学会エリートのような気持ちなのかもしれません」
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