9月26日に「袴田事件」再審判決 釈放を決めた元裁判官は「冤罪救済に時間がかかり過ぎる」「人権問題を超えて人道問題」

  • ブックマーク

 静岡県清水市(現・静岡市清水区)で味噌製造会社の専務一家4人が殺された1966年の事件。この事件で死刑囚となった袴田巖さん(88)の再審判決まで、あと1カ月となった。姉のひで子さん(91)は炎暑に全国を駆け回っているが、それはもはや弟の非業な運命を世に訴えるためではない。

 巖さんとひで子さんを追う連載「袴田事件と世界一の姉」の第45回は、ひで子さんが出席したシンポジウムの様子と弁護士・村山浩昭氏(67)のインタビュー。村山氏は裁判官だった10年前、静岡地裁で袴田事件の再審開始を決め、巖さんを釈放した人物である。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

 ***

母は最後に「巖は駄目かいね」と

 ひで子さんは他の冤罪被害者の集会などにも出席している。多少、耳は遠くなったが、91歳とは信じられない気力と体力だ。8月18日も京都市でシンポジウム「今、変えんと。『再審法』~新聞記者と語る、他人事ではない『えん罪』という名の地獄~」(主催・京都弁護士会)に出席した。他のゲストは冤罪事件を取材してきた4人の若手新聞記者と1984年の日野町事件(滋賀県)で冤罪を訴えた阪原弘さん(故人)の長男・弘次さん(63)だ。

 これまでの長い歳月を司会者に問われたひで子さんは「58年、時間のことなんか気にする暇も余裕もなかった。ただ『再審開始にならないかなあ』とだけ思って戦ってきた。ここへきて目標が見えて、ちょっと時間を長く感じ始めています」と話した。

「私の家だけ、なんでこんな酷いことに巻き込まれたのかと思った。世間に冤罪なんてないと思っていましたから。母は大変苦労して静岡地裁に通っておりました。ある時、どこかのおじさんが裁判所で母に『この裁判はおかしいね』と声をかけてくれたそうです。母は私に電話よこして『ひで子ーっ』ってとても喜んで話してくれた。私たちに声をかける人なんて少なかった。

 あんな時代ですから、冤罪と思っても知らん顔していたのかな。私たちは巖がそんなことをするはずがないと信じていても、とても(周囲に)言えなかった。私たちきょうだいは離れていて、裁判には主に母が出ていた。母は最後に『巖は駄目かいね』と言って亡くなっていきました。母の苦労を思えば私の苦労なんかなんてことありません。母が死んだことは(巖にしばらく)伏せていました。母の心は今も身に染みています」

「犯人にされたら黙っているしかなかった」

 当時の報道については「警察の発表を鵜呑みにして報道していた。新聞、ラジオ、テレビ、すべて巖が犯人であるような酷い報道でございました。当時は新聞もテレビも一切見なかった。無実ですって言いたくても言えない。家族が物申すなんてできない。犯人にされちゃったら黙っているしかなかったのです」。

「熊本さん(一審の静岡地裁の裁判官、熊本典道氏。後年に「無実と思っていた」と告白)が出てこられた時、世間の目も変わりまして、挨拶もしたことない人が挨拶してくれる。それまでは知人も知らん顔して通り過ぎる。社会とは距離を置いて生活していたので、平気で私は図々しく生きていました。再審開始でずっと変わった。『よかったですね』と言っていただき、世間様とお付き合いするようになりました」

「5点の衣類のカラー写真がもっと早く出ていればとの思いは?」と聞かれ、「600点の証拠開示で、弁護士さんも『これは(いける)』という感じでやっていただき、静岡地裁で再審開始になりました(2014年3月)。検察は即時抗告したけれど、(私は)『48年待ってたから、5年や10年延びてどうってことない』と言ってました」と振り返った。

 そして最後にこう力を込めると、大きな拍手に包まれた。

「私は巖だけ助かればいいと思っていません。多くの人が冤罪で苦しんでいることがわかりました。再審改正の法律整備も進めていただきたい。48年も拘置所にいたら(巖の精神が)おかしくなって当たり前。そのことで恨みつらみは申しません。冤罪被害者のために再審関係などの法律変更をぜひお願いしたいと思います」

次ページ:巖さんを釈放した当時の裁判官

前へ 1 2 3 4 次へ

[1/4ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。