【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話
警視庁の極秘捜査
年が明けた89年2月6日、(1)事件の被害者宅に、焼かれた遺骨が送りつけられ(後に被害者の遺骨と断定)、同10、11日には犯行声明文が被害者宅と朝日新聞社に届いた。
前出の警察庁資料によると、一連の事件捜査や総合対策のため、警察庁の指導調整により栃木、茨城、群馬、神奈川、警視庁の各警察から、事件の主要舞台になっている埼玉県警へ、三次にわたり応援部隊が派遣されていた。
3月に入り、警視庁は立川市にある第4機動隊舎内に「埼玉県警支援捜査班」を極秘で設置した。埼玉県警からの捜査支援要請は、朝日新聞社に送られた犯行声明文の消印が青梅だったので、使用された封筒の販売ルートなどの捜査に加え、重要な目撃情報の裏付けがあった。
2月6日未明に被害者宅に遺骨が送りつけられた際、新聞配達員が不審な車を目撃していた。時間は午前3時、車種は黒のホンダ・プレリュード。ヘッドライトを消し、人が歩くくらいの速度で、被害者宅の方向へ走って行ったという。
「この配達員も車が好きで、車種も色もよく覚えていたのです。ナンバーは詳細まで記憶していなかったのですが、3ケタであることは覚えていました。この当時、3ケタのナンバーというと、85年2月に開設された八王子ナンバーの可能性が極めて高い。そこで、八王子ナンバーの黒のプレリュードを洗うことになったのです」(当時の警視庁捜査一課幹部)
埼玉県警がカローラIIを水面下で追っていることは、警視庁に提報されることはなかった。双方とも、車の割り出しから「今田勇子」につながると信じていた。その後、一部報道で埼玉県警がカローラIIを追っていることが明るみに出ても、県警から警視庁への説明はなかったという。
そして、警視庁管内で(4)の事件が起きる。
6000本のビデオ解析
元警視庁捜査四課刑事だった古賀一馬氏は、(4)事件の発生を受けて、警視庁深川署に設置された捜査本部へ応援派遣された。聞き込み要員は50組100人。犯行に使われた車を割り出す要員だけで2、30組はいたという。
〈周辺で動いた車は全部高速道路の入り口などに置かれているカメラ「Nヒット」でナンバーが撮ってあったから、これを一台一台確認していくのである。私が一課に行ったときは、一般職の専門家がやって来て、車のナンバーは全部出されていた。一万台はあっただろう。宮崎が犯行に使った車は紺のラングレーだったが、八百台ぐらいつぶし確認をしたところで、宮崎は別件で八王子で逮捕されている〉(古賀一馬『警察官の掟 粘る 怒鳴る 突っ込む――刑事たちの表とウラ』三笠書房)
宮崎死刑囚は89年7月23日、八王子市内で幼女に対する強制わいせつ事件を起こし、警視庁八王子署に逮捕された。犯行手口や生活環境などから警視庁捜査一課は自宅を家宅捜索。8月7日に逮捕容疑で起訴し、9日に(4)事件当日のアリバイなどを追及したところ、犯行を自供。翌10日に供述通り女児の遺体を発見したことから11日、(4)事件の被疑者として逮捕した。
その後の調べで分かったことだが、宮崎死刑囚は西多摩郡(当時)の自宅から、江東区の現場まで高速道路を使用せず、ひたすら一般道を走っていた。その理由は、当時、片道で2千数百円だった高速代が「もったいない。ビデオテープを買った方がいい」というものだった。
〈最も大変だったのは、押収した六千本のビデオの分析だった。各所属からビデオデッキとテレビをカキ集めて、日勤(昼間の勤務)の制服組も動員して講堂で見るのである。気が遠くなるような作業だったと思う。連日捜査員たちは真っ赤に充血した目で画像を追い続けた。このなかから事件に関連があるものと思われるものが約二百本。それをさらに直接関連する遺体のビデオと、直接関係のないものなどに分類していくのである〉(前出・同)
先に身柄を取った警視庁の捜査はどこまで進んでいるのか。埼玉の事件について何か話していないのか……埼玉県警の捜査員も忸怩たる思いだったに違いない。その最中、埼玉県警から正式に、カローラIIの捜査に関する説明があったという。
警視庁と埼玉県警。どちらも威信をかけた捜査は宮崎死刑囚の逮捕まで、3ケタの八王子ナンバーで紺のラングレーにたどり着くことはなかった。(1)事件で目撃されたプレリュードは後に、事件が話題となり、気になって様子を見に来た一般人だったという。
宮崎死刑囚が警視庁管内の(4)事件での取り調べを終え、埼玉県警に身柄を移されたのは9月8日だった。
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