【連続幼女誘拐殺人事件から35年】八王子ナンバーの「黒いプレリュード」、「カローラII」…宮崎勤の逮捕まで分からなかった「車」を巡る捜査秘話

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紺の日産ラングレー

 その車は1審判決を控えた1997年4月になっても、かつて捜査本部が置かれていた埼玉県警狭山署の倉庫に保管されたままだった。

「ボクの車を返して欲しい」

 法廷で何度か言及した自分の車、紺の日産ラングレー。全ての事件でこの車が使用されており、被害者に手を下した現場にもなった。今から35年前の夏、日本列島は、この男の起こした事件の話題でもちきりとなった。

「広域にわたる連続幼女誘拐殺人並びに死体遺棄事件」(警察庁指定117号事件)である。宮崎勤死刑囚(2008年6月17日死刑執行、享年45)は、4人の幼女を誘拐して殺害し、遺体を損壊して遺棄するという、

〈我が国の犯罪史上にも例を見ない、極めて残忍非道で社会的反響の大きい重要凶悪事件であった。その凶悪性、残忍性は、幼い子をもつ家庭はもとより全国民に大きな不安と衝撃を与えた〉(「刑事警察史(事件編)」警察庁の資料より)

 被害者の遺骨を自宅に送りつけたり、「今田勇子」名で犯行声明文を出したり……異様な犯行に、大捜査を展開した埼玉県警と警視庁だが、宮崎死刑囚の車を巡って、捜査は二転三転してしまう。関係者の証言や資料から、その舞台裏を紐解いてみたい。

八王子ナンバーのツーボックスカー

 事件経過と被害者を一覧にすると、以下のようになる。事件はまず埼玉県内で起こり、東京へと移っていく。

(1)1988(昭和63)年8月22日。埼玉県入間市の4歳女児。
(2)同年10月3日。埼玉県飯能市の7歳女児。
(3)同年12月9日。埼玉県川越市の4歳女児。
(4)89(平成元)年6月6日。東京都江東区の5歳女児。

 埼玉県警では、半年の間に県西部で3人の女児が行方不明になるという事態に、本部長直轄の対策本部を設置していたが、88年12月15日、(3)事件の被害者の遺体が埼玉県名栗村の山林で発見された。

「現場検証の結果、県警鑑識課が近くの道路の側溝に車の脱輪痕を発見しました。さらに、事件当日の深夜、その場所で右前輪を側溝に落とした車があり、通りがかった別のドライバーが発見しました。しばらくすると、脱輪車のドライバーが山から下りて来て、動かせないというので、車を動かすのを手伝ったというのです」(当時の埼玉県警捜査員)

 通りがかった車にはドライバーと友人が乗っており、独りが運転席に、もう一人が車の後部を押して脱輪したタイヤを側溝から出したが、男は礼も言わずに立ち去ったという。

 宮崎死刑囚は警視庁に提出した上申書の中で〈死体を捨てる場所を探しているうちに車輪の一個がみぞにはまった。死体を捨てて戻ると二人ぐらいの男がいて、一人が車を運転して助けてくれた〉と書いている。この、運転席で車を動かした人は、ディーラー勤務のある自動車修理工だったという。

〈二人の証言から一致したのは、車両の形がツーボックスカーだったことだ。ツーボックスカーは、各メーカーから多くの車種が出ている(略)。目撃した会社員のうち、一人が車に乗って、一人が後ろから押して手助けしたが、車に乗った運転席の感覚から、「トヨタ系の車両に間違いない」と県警捜査員の事情聴取に答えた。その証言を元に、県警はハンドルや計器類、ギアチェンジレバー、サイドブレーキ、ウインカーなどの位置を何回も確認した。そのうえで、「車種はトヨタ・カローラIIか同じトヨタ系のコルサまたはターセル」と断定したのだった〉(大和田徹著『今田勇子vs.警察』三一書房)

 さらにその後の調べで「紺と銀色のハッチバック車で、カローラIIの可能性が高い」となったが、ナンバーは覚えておらず、「八王子だったかもしれない」とのことだった。だが、有力証言であることは間違いない。同車種の所有者の洗い出しが極秘で始まった。

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