馬術「井上喜久子」が63歳で3度目の五輪に出場できたワケ 吉永小百合らによる募金運動で集まったのは「驚きの金額」だった(小林信也)

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 パリ五輪の総合馬術で、平均年齢41.5歳、「初老ジャパン」と自称する日本の4選手が銅メダルに輝いた。馬術で40代はまだ中堅。男子は2012年ロンドン五輪に71歳で出た法華津寛、女子では63歳で1988年ソウル五輪に出場した井上喜久子がいる。

 井上は、24年12月4日、東京・三田の馬杉(ばすぎ)家に生まれた。母方の祖父は、セメントを柱に一代で浅野財閥を築いた浅野總一郎。父馬杉秀は東大馬術部出身。母慶子もアメリカ留学中に馬場馬術に魅せられた。井上の両親は、結婚後も馬術への情熱を抱き続けた。そういう環境で井上は育った。カルロス矢吹の著書『アフター1964東京オリンピック』の中に、井上のインタビューが収録されている。

〈「父は自分の家で馬を飼いたかったんです。馬を飼ったら蠅も出ますし臭いもする、たまには鳴くし、三田は御屋敷町でしたから『近所に遠慮して暮らすのは嫌だ』って言って、田舎の目黒に引っ越したんです。今じゃ考えられないでしょうけど、当時の目黒は原っぱと森が広がっていて。家では馬3頭、ロバ1頭を飼っていました」〉

 井上は5歳から馬術を始め、休日には家族で目黒から銀座まで馬車で出かけたというから、馬がいつも身近にいる暮らし。3度の五輪出場の土台と情熱は幼い頃からの生活で培われたのだろう。

 7歳で初めて大会に出場。11歳の時、全日本馬場馬術乙種(ジュニア)に初優勝。天才少女と騒がれた。だが、戦火の影響と、結婚で競技から離れた時期もあり、五輪予選に初挑戦できたのは60年ローマ大会だった。井上は最終選考会で首位だったが、派遣選手枠の関係で出場を見送られた。愛馬ユドラ号がすでに18歳だったことも憂慮されたとの説もある。

馬のけがでメキシコ断念

 念願の五輪初出場は64年東京大会。39歳になってからだ。初出場の東京五輪を前に、朝日新聞の「豆記者訪問」の欄(64年5月31日付)で、小学生の質問にこんなふうに答えている。

〈「馬がおこったり、おなかがすいているのは、どうしてわかりますか」

「だいたい目つきでわかります。また、おこっている時は耳をうしろにたおしたようにします。おなかがすいた時は、鼻をならしたり、前あしをかいたりするのですよ」〉

 そして、井上が専門とする馬場馬術について、分かりやすく教えている。

〈「同じように歩いているようでも、よく気をつけてみると、あしの出し方が、次々にかわります。なみあし・かけあしなどします。そして、十二分三十秒の間に、三十二種類のあるき方をやるのですよ。見ている人にわからないように、あるき方をかえる合図をするのです。そうなるには、五年も六年もかかります。のる人が落ちつかないと、馬もおちつかないし、やたらにむちを使ってもいけません。同じことを毎日毎日、何回も何回も、雨が降っても練習するのですよ」〉

 東京大会では「最高の出来だった」と、後に井上は振り返っている。しかし順位は22選手中16位。その要因は馬にあった。井上が乗った馬を、ソ連の選手が「ポニーかい?」と嘲笑した話が残されている。騎手と技術だけでなく、馬格も馬場馬術の大切な採点要素だ。外国勢が3000万円以上する馬に乗るのに対し、井上のはわずか30万円で購入した馬だった。それでも嫁いだ相手がサラリーマンだったから、費用の捻出は容易でなかった。

 競技後、井上は語った。

「大会のふんいきにものまれず、のびのびと乗れました。この乗馬の勝登号としてはまずまずのでき。終ってほっとしました。しかし馬に前進気勢が欠けているのが致命的で期待にそえず残念でした」(朝日新聞64年10月22日付)

 4年後68年メキシコ五輪は、馬が足を痛めたため断念した。72年ミュンヘン五輪には出場したが、日本馬術連盟が購入したドン・カルロス号との相性が悪く、下から2番目にとどまった。76年モントリオール五輪では馬が調達できず、80年モスクワ五輪には借金をして参加を目指したが、ボイコットで幻となった。84年ロス五輪は借金返済のため、出場できなかった。井上は、長い年月、ずっと悔しさをかみしめ続けた。

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