瞬く間に会場キャパ350→2000に…永井真理子の80年代 57歳の今もライブでは「アドレナリンが出まくっています」

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第1回【永井真理子が「人生をかけよう」と思った短大時代のバンド なぜかソロデビューにつながった思わぬ“事故”とは】のつづき

 兄と遊びで歌っていた子供時代を経て、厳しい高校生活を送った永井真理子(57)。音楽への思いを募らせて短大に進学すると、入学からわずかな期間でデビューを決めた。それから今まで、自身やその楽曲で求められるままに全力投球を続けてきた。そんな永井のロングインタビュー第2回は、デビューから現在までについて。50代半ばを超えた今は、「やりたいことを全部やろう」という思いを強くしている。

(全2回の第2回)

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「1位」の場所に自分のCDを

 短大卒業後の1987年7月にシングル「Oh,ムーンライト」、翌月にアルバム「上機嫌」を発売し、デビューした。コンテスト入賞などの実績はなく、ゼロからの出発。Tシャツとジーンズにショートカットは短大生当時のままだった。

「デビューしてすぐは私のことなんて誰も知らない。レコード店に行き『今週の第1位』のところに自分のCDを置いたりして。間違って買ってくれないかなと思っていました」

 そんなある日、カフェで「Oh,ムーンライト」が流れた。有線放送だった。

「顔を隠したんですよ。誰に見られているか分からない、とか勝手に思って」

会場の広さが一年足らずで倍以上に

 人々の注目を集めるまでに時間はかからなかった。1988年9月発売のアルバム「Tobikkiri」でベスト10入りするなど、上昇の一途を歩む。露出も増えたが、出演番組を見るのも恥ずかしく、人気が上がっている実感はあまりなかったという。

 それでも着実にファンは増えていった。1987年9月、12月のライブは東京・渋谷のライブハウス「渋谷eggman」だったが、翌年5月は道を挟んだ「渋谷公会堂」(現・LINE CUBE SHIBUYA)。キャパシティ約350から1年経たずに約2000の会場になったのだ。1989年11月には「日本武道館」(東京・千代田区)での2DAYSライブも実現した。加速度を増す忙しさや、都市から都市へのバス移動で、自分がどこにいるかも分からないこともあった。

「自分でもわけが分からなくなっていました。誰が見に来てるんだろうって。ただショートカットでボーイッシュな女性や、Tシャツにジーンズ姿の男性のお客さんが目立つようになってきました。青森のライブでは『今日は青山に来ました~!』って思いっきり叫んだことも。最前列のお客さんが口の動きで『青森です!』と教えてくれました」

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