「これはと思うと行動に移してきた人」 「ストロベリー・ロード」石川好さんの“好奇心の赴くまま”な人生

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 1989年、石川好(よしみ)さんは『ストロベリー・ロード』で大宅壮一ノンフィクション賞に輝いた。65年、18歳の石川さんがカリフォルニアに渡っていた兄を頼って現地に向かい、イチゴ農園で厳しい労働を続けた日々を振り返った内容だ。

 密入国したメキシコ人らと一緒に働き、新参者は苦しさに耐えてこそ仲間として受け入れられるのだと体感する。石川さんが思い描いていたきらびやかなアメリカとは別世界だった。この国にはすでにアメリカ人になっている人々と、これからアメリカ人になろうとしている移民や密入国者の2種類がいると考えるようになった。自分は何者かと石川さんは自問、日本とアメリカ両国を眺め始める。

「見たことがない奇妙なタイプ」

 47年、東京・伊豆大島生まれ。父親は大工。石川さんは冒険心からアメリカ行きを志す。高校を卒業後、4年余りアメリカで働き、69年に帰国。翌70年、自活しながら慶應義塾大学法学部に進んだ。卒業後、就職せず仕事を転々としつつアメリカとの行き来を繰り返した。この時期、4歳年下で作家の殿谷(とのがい)みな子さんと結婚。彼女は振り返る。

「最初の印象は、この人は一体何だろう、と不思議でした。見たことがない奇妙なタイプ。生活は苦しかったですが、それはそれで変化があって楽しかった」

 81年、1児を授かる。銀座の高級クラブでマネージャーを務めながら、カリフォルニアの移民について文章を著すようになる。

“肌感覚の部分”を捉えた

『ストロベリー・ロード』はそもそも「週刊エコノミスト」で87年に連載された記事。アメリカの市井の暮らしに根ざした感情をくみ取っていると評価された。

 共同通信のワシントン支局長などを歴任した春名幹男さんは言う。

「日本のメディアの報道からこぼれ落ちる肌感覚の部分を捉えていた。一口にアメリカ人と言ってもカリフォルニアのような地域性、加えてメキシコ系というように、背景まで見極める必要を示唆しました」

「財界」主幹の村田博文さんも言う。

「日米貿易摩擦、日本たたきの時期と重なった。日本企業がアメリカに工場を造り、現地人を雇用する過程は、いかに人々に溶け込み、信頼関係を築くかという点で移民と通じる部分がありました」

 討論番組「朝まで生テレビ!」にしばしば登場。感情的にならず、アメリカの長所短所を語れる人だった。

 国際問題の評論家のように呼ばれたが、国際化とは基準を海外に置いて日本を批判することではないと語った。そして肩書や専門領域にこだわらなかった。桑田真澄投手を長く取材した作品もある。自分の文章は、物事がどういうふうに見えたかという私的な写生文だと語っていた。

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