僕と妹を捨て、男の元へ走った母は「元気にしてた?」とヘラヘラ… 涙がこぼれた“12年ぶりの再会“で残していったモノ

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【前後編の前編/後編を読む】「“二号さん”でもいいと言われ…」28歳年下のバイト女子を囲うアラフィフ夫 「もうじき身を引く」という発言の真偽はいかに

 セカンドパートナーという言葉が流行っているが、かつては「二号さん」という存在がいた。大きな商家の旦那などが、別宅を構えて女性を住まわせ、生活のすべてのめんどうを見ていた。文字通り、一号である正妻に対しての「二号」だ。不承不承ではあろうが、妻が公認していることもあった。実際、下町生まれの筆者の近所にも「二号さん」がいた。一軒家に住み、旦那が来る日は美容院に行ってきれいにしている。周辺の人はみな、旦那のことも知っていた。だからといって陰口をきくこともなかった。「二号さん」は、ある種の就職のようなものだったのかもしれない。

「さすがに今どき、二号さんとはいわないでしょ。でも家庭のある僕が、今の彼女とつきあうとき、彼女自身が『二号さんでもいい』と言ったことがあるんです」

 尾崎孝紀さん(52歳・仮名=以下同)は、2年前、28歳年下の女性に住まいと生活費を提供することを決めた。理由は、「彼女を放っておけなかったから」だという。当初は彼女を恋愛対象だと思っていたわけではない。だから当然、束縛したり囲い込んだりするつもりはなかった。

「彼女は体を壊し、職もない、家もない、信頼できる家族もいないという状況でした。知り合って間もなかったけど、放っておけなかった」

 恋ではなく、人道的支援のような感情だった。そして、何もかもなくして絶望したときのつらさは自分も経験していますから、と彼は苦笑した。年齢よりずっと若々しく見えるが、笑うと目尻にけっこう深いシワが寄る。だが、それがとても人懐こく見えた。

母が“出奔”、妹はグレかけて…

 彼は「世間にはよくあることでしょ」と言いつつも、産まれ育った家庭には複雑な思いがあると明かしてくれた。多感な中学生時代に母が外で恋愛をして出奔したのだという。

「出奔という言葉が気に入ってまして……。当時は母を恨んだりもしました。父は優しい人だったから。でも今になると、そんな優しい父が、気性の激しい母には物足りなかったのかったのかもしれないと理解しているんです」

 父は、孝紀さんと3歳違いの妹を大事に育ててくれた。父の気持ちに応えようと彼はがんばり、地元でもいちばんいい県立高校に進んだ。父は3年間、お弁当を作り続けてくれたという。

「父と僕は無言のうちに、妹を守ろうという協定を結んでいたような気がします。妹は母親っ子だったから、母に見捨てられたと思って落ち込んでいた。学外の不良仲間に誘われて、そちらに行きそうにもなったんです。でも父と僕が必死になって妹を説得した。僕らにとって妹は大事な存在だから。気持ちが伝わって妹は、茶髪にしていた髪をある日、黒く染め直してきた。それからは3人で寄り添いながら暮らしたんです」

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