昭和天皇は自らの戦争責任をどう考えていたのか 「責任を取って退位するなどと考えていないことは明らか」
戦争責任についての昭和天皇のご宸意は、マッカーサーや侍従長が遺した記録等に言及がある。だが、それらは政治的思惑による歪曲や過剰な装飾の可能性が排除できない。一方、皇室と縁深い英国に眠る外交文書をひもとくと、そこには陛下の“本音”が綴つづられていた。【有馬哲夫/早稲田大学名誉教授】
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【写真を見る】馬車でバッキンガム宮殿に向かう裕仁皇太子(昭和天皇)
歴史研究の方法としてマルチアーカイブ的アプローチがある。つまり、複数の公文書館所蔵の公文書を読み比べて、同じ歴史的出来事に多角的に光をあて、事実を明らかにすることだ。
例を挙げよう。これまで、原爆はアメリカが一国で開発し、投下の決定も単独で行ったとされてきた。だが、アメリカ国立第2公文書館、イギリス国立公文書館、カナダ国立図書館・公文書館に所蔵されている公文書を互いに参照しながら読むと、原爆開発を最初に始めたのはイギリス(モード計画という)で、それがアメリカに技術移転されて(これがマンハッタン計画)、そこにカナダが協力したのち、ようやく原爆が完成し、これら3カ国が同意した上で投下していたことが分かる。
こういった3カ国による共同開発協定(ケベック協定)がなければ、原爆は1945年7月16日に完成していなかっただろう。つまり、日本に投下されずに先の大戦は終わっただろうということだ(詳しくは拙著『原爆 私たちは何も知らなかった』に譲る)。
これは、マルチアーカイブ的アプローチを取ったからこそ明らかにできた歴史的事実だといえる。
では、同じアプローチを昭和天皇の戦争責任についての発言に用いるとどうなるのだろうか。
イギリスの文書を参照すると……
これまで、昭和天皇が戦争責任について発言した記録は、アメリカと日本に残っているものが使われていた。つまり、1945年のフランク・クルックホーン記者(「ニューヨーク・タイムズ」)が送った質問状への回答、その2日後の昭和天皇・マッカーサー会見記録、それから侍従長などの記録だ。そして、『昭和天皇・マッカーサー会見』(豊下楢彦著)などで分析されている。
では、これにイギリスの外交文書「昭和天皇・キラーン卿会談記録」(イギリス国立公文書館)を加えて参照するとどうなるか。
この文書で、新たに分かることはあるのだろうか。そこまでいかなくとも、これまではっきりしなかったことが、明確さを増すだろうか。これを明らかにするのが本稿の目的だ。
まず、「キラーン卿会談記録」に触れる前に、これまでに何が分かっていたのかを豊下の著書を基に述べよう。
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