「僕たちはいい友だちです」 日本人、漢人、蕃人の三民族が一つになった「嘉義農林」と考える“高校野球の意義”(小林信也)
孤独な挑戦者たち
『真夏の甲子園はいらない』という本を玉木正之氏と共編で上梓し、古くさい根性主義を嫌っている私が、呉投手には共感し、心を揺さぶられる理由は何だろう?
甲子園を目指した高3の夏、〈優勝候補〉と新聞に書かれながら私たちは2回戦で敗れた。あれからちょうど50年目の夏を迎えた。高校野球に打ち込んだことが人生にどう影響したのか、成否を評価するに十分な年月が流れた。正解だったのか、誤りだったのか。
あの3年間がなければ、スポーツライターになることはなかっただろう。だが貴重な青春時代、もう少し他のこと、例えば映画を見る、本を読む、他の分野に関心を寄せるなどしていたら、別の道も開けていたのではないか、とも考える。
映画に描かれた嘉義農林ナインそして呉明捷が“アンチ高校野球”の胸を揺さぶったのは、彼らが決して周囲から応援されていなかった、孤独な挑戦者だったからかもしれない。厳しく貧しい世相があり、野球など生きる糧にもならない遊びでしかなかった。周囲の冷たい視線が渦巻く中、それでも野球をせずにはいられない渇望があった。私もそうだった。いまの高校球児はどうだろう。
呉は早稲田大に進み、打者に転向して通算7本のホームランを打った。これは57年に立教大の長嶋茂雄に抜かれるまで六大学最多記録だった。卒業後も日本で暮らし、結婚し子どもに恵まれた。孫の東山礼治は整形外科医になり、台湾との医療交流に貢献していると6年前に朝日新聞が伝えている。
甲子園でともに戦った仲間の何人かは戦争で命を落とした。青春を野球に懸け、甲子園の活躍で嘉義の人々を勇気づけた。その人生を呉自身はどう感じていただろう。その後、台中に嫁いだ彼女に会う機会はあっただろうか。
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