「僕たちはいい友だちです」 日本人、漢人、蕃人の三民族が一つになった「嘉義農林」と考える“高校野球の意義”(小林信也)

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 1931年、夏の甲子園で決勝に進出したのは中京商(愛知)と嘉義農林(台湾)。当時は日本が統治していた朝鮮と台湾からも代表校が参加していた。

 初出場の嘉義農林は初戦(2回戦)で神奈川商工を3対0、準々決勝・札幌商(北海道)を19対7、準決勝・小倉工(福岡)を10対2で破り決勝に進んだ。快速球と大きな変化球が武器のエース呉明捷を中心によく守り、よく打ち、よく走って観衆の心を捉えた嘉義農林は、2014年公開の映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」で多くの人々が認める伝説となった。呉の投球フォームはいま、嘉義市の中心にある中央噴水池で金色の銅像になっている。

 映画の中に、初勝利の後、新聞記者が心無い質問を浴びせるシーンがある。

「日本人は手を挙げてもらっていいですか。僕が聞きたいのは、君たちは彼ら違う民族の部員たちと意思の疎通ができるのか。野蛮な高砂族は日本語が理解できるのか?」

 これに主将は、「質問の意味が分かりません。僕たちはいい友だちです」、ぶぜんと答える。日本人6人、漢人3人、蕃人(先住民の通称高砂族)3人のチーム。監督の近藤兵太郎は語る。

「漢人は打撃が強い。蕃人は足が速い。日本人は守備がうまい。理想的なチームだ」

 記者は以後、嘉義農林の戦いに関心を寄せ、やがて感銘を受けて思いを変える。「記者のモデルは菊池寛です」と教えてくれたのは日台交流サロン会長の加藤秀彦だ。加藤は両校の流れをくむ中京大と国立嘉義大の交流戦を16年に始めた仕掛人でもある。

「映画のせりふと記事の内容が一致します」と送ってくれた朝日新聞の古い記事に《涙ぐましい…三民族の協調》と題しこうある。

〈内地人、本島人、高砂族といふ変つた人種が同じ目的のため協同し努力してをるといふ事が何となく涙ぐましい感じを起させる、実際甲子園に来て見るとフアンの大部分は嘉義びいきだ〉

マメがつぶれるも

 元気で直情的なナインが多い中、エースの呉は知的で内面に葛藤を抱える少年として描かれている。映画の序盤、互いに引かれ合う少女と自転車で農道を二人乗りするシーンがある。彼女は走行中に荷台に立ち上がる無茶をする。呉が慌てるが彼女はやめない。親が決めた縁談を受け入れ、台中の医師の元に嫁ぐと決まった、揺れる心情を抑えきれない少女の行動。呉は強い思慕を胸に抱いたまま、嫁ぐ彼女を見送り、白球に葛藤をぶつけるしかなかった。映画を見た多くの元高校球児が理屈抜きに感情移入した場面ではないだろうか。私にも同様の記憶がある。甲子園を目指すため、野球以外のものへの思いはすべて断ち切る。受験勉強も恋愛も他の活動は犠牲にする、そんな美学に生きる自分を誇らしく思っていた。

 甲子園の連投で呉の右手中指のマメがつぶれた。決勝戦の4回、ついにマメがはがれ、血で滑って制球が失われた。それでも呉はマウンドに立ち続けた。

「自分だけが英雄になろうと思うなよ。打たせろ、俺たちが守ってやる」

 仲間たちが声をかける。三民族は確かに一つになっていた。その中心にエース呉明捷がいた。

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