【光る君へ】ヒール「藤原伊周」がやっと復権も… ふたたび自滅し無残な最期を遂げるまで

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ふたたび立ちたくても糖尿病に阻まれ

 翌寛弘6年(1009)正月、伊周の母である高階貴子の縁者である高階家の一派が、彰子と敦成、道長が死ぬように呪詛していたことが発覚し、その首謀者は伊周だとされた(『政治要略』)。伊周をやっと復権させた一条だったが、これでまた断罪し、内裏への出入りを禁止にせざるを得なくなってしまった。まさに伊周の自滅としかいいようがなかった。

 だが、それでも一条天皇は、寵愛していた定子の兄で、定子との間に生まれた第一皇子の伯父である伊周を大事にしたかったと思われる。もし、敦康が即位することがあれば、後見してほしいという思いがあったのだろう。だから、翌年には伊周をふくみ呪詛に関与した者をみな赦免している。

 ところが、そのとき伊周は、父の道隆からの遺伝なのだろうか、飲水病(現代の糖尿病)に侵されていた。寛弘7年(1010)1月28日、37歳でこの世を去った。

 そのころ道長は、娘たちの後宮に上級貴族たちの娘を、女房として次々と送り込んでいた。伊周にはそんな状況が苦々しく、自分の娘だけはそうさせまいと思ったのだろう。『栄花物語』によれば、2人の娘の前で、おまえたちを女房にしたい者は大勢いるのだろうが、そんなことになれば、自分にとっては末代までの恥だ、自分より先にこの娘たちを死なせてくれと祈るべきだった、と語ったという。

 しかし、父の死後まもなくして、娘は彰子の女房になった。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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