【光る君へ】ヒール「藤原伊周」がやっと復権も… ふたたび自滅し無残な最期を遂げるまで
念願の表舞台に復帰した伊周
一条天皇(塩野瑛久)は藤原伊周(三浦翔平)を、ふたたび陣定(平安時代の摂関期に公卿たちが行った国政会議のこと)に召し出す宣旨をくだした――。NHK大河ドラマ「光る君へ」の第32回「誰がために書く」(8月25日放送)でのことである。
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失脚して以来、まだ公卿(太政官の高官で国政を担う最高の職位。太政官から参議、および三位以上の朝官)に復帰していない伊周は、それに先立って「大臣の下、大納言の上」に座るように命じられていた。続いて陣定への参加。ようやく表舞台への復帰である。
父である藤原道隆(井浦新)の権勢のもと、19歳で内大臣にまで昇進しながら、叔父の藤原道長(柄本佑)との権力争いに敗れた挙げ句、長徳2年(996)正月、花山上皇(本郷奏多)に矢を射かけるなどして失脚。太宰権帥に流されたばかりか、妹の中宮定子(高畑充希)を出家させる原因までつくってしまった。
その翌年、都へ戻ることは許されたものの、復権にはほど遠い状態に置かれていた。それが寛弘2年(1005)になって、ふたたび権勢を手にできるところまで引き上げられた。藤原実資(秋山竜次)らは、一度は罪を犯した「嫌な奴」が復権する状況を嘆いてみせた。また、どうやら視聴者にも、このヒールに悪感情をいだいている人が多いようなのだが、ともかく、道長への敵愾心を燃やす伊周は、あと一歩で道長を射程にとらえられる位置にまで戻ってきたのである。
道長が伊周を復権させざるをえなかった事情
ところで、このときナレーションは、「一条天皇が伊周を参列させたのは、道長を牽制するため」だと語ったが、その解釈は正しいとはいえない。
一条天皇にとって伊周は、いまなお思い続けている亡き定子の遺児である敦康親王の外戚(叔父)である。それなりの立場に就いていてほしいと思っていた。敦康親王は第一皇子であり、この時点では、いずれは春宮(皇太子)になり即位する可能性が高かった。したがって、親王を支えるにふさわしい権威をあたえたかったのだ。
一方、道長もまた伊周を復権させたいと考えていた。だから、この人事は一条天皇と道長のコラボレーションといえる。その理由を、「光る君へ」の歴史考証も担当する倉本一宏氏は、「道長としては政権復帰の望みを絶ったかつての政敵に恨みを残されたくなかったのであろう」と書く(『紫式部と藤原道長』講談社現代新書)。
これまでも伊周が陰で道長を呪詛する場面がたびたび描かれてきたが、この時代は、そうした呪いのようなものが効力を発揮すると信じられていた。また、恨みをいだいて死んだ人間が祟ることもあった。そうであれば、道長も伊周を放置しておきたくはなかった。
とはいえ、伊周を復権させることは、道長にとっては両刃の剣だった。
道長が一条天皇に入内させた中宮彰子(見上愛)には、いまだ子がなかった。今後、子ができたとしても、皇子が生まれる保証はない。だからこそ道長は、敦康親王を彰子に養育させ、敦康が即位することになっても、彰子が養母、自身は養祖父として君臨できるように算段していた。しかし、ほんものの外戚には敵わない。伊周の復権は、場合によっては、道長の権勢が伊周に取って代わられる可能性につながるものだった。
だから、伊周は余計な動きなどせず、機を待てばよかったのだが、彼にはそれができなかった。
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