「過激派の教祖」と呼ばれた滝田修氏の扇動と激変 釈放後語った持論は「右翼とか左翼とかいうのは遅れた考え」

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10年以上の逃亡の末に

 働いて白昼堂々と暮らしていた時期もある。工場で右手の指先を切断するケガを負う。82年8月に逮捕。自然食品作りに関わる女性と生活していた。逃亡は10年以上に及んだ。右手のケガとかつての恋人から渡され大切に飼い続けていた黒猫が特定の目印になった。

 89年、滝田氏との謀議があったとする主犯格の供述は信用できないとして共同共謀正犯に関しては無罪になるが、滝田氏が4万円を送金した事実をほう助と認定。懲役5年の実刑に。すでに勾留が6年以上に及び、釈放された。潜行と勾留で合計17年。この間に両親は病死、兄は自殺している。

 同年、著書『滝田修解体』を発表。獄中でわが身を振り返った内容で、〈「革命」をことばでしゃべりちらすことで、なにほどかのことをしているかのように思っていた。〉などと述べ、過去の言動と整合性がないと支援者からも批判を浴びた。

「右翼とか左翼とかいうのは遅れた考え」

 自由の身になり早々に右翼の論客、野村秋介氏の著書の出版記念パーティーに現れ、写真誌「FOCUS」の取材に、〈右翼とか左翼というのはアナクロニズムの遅れた考え。素晴らしい人物ならボクは誰とでもつきあう〉と語ったが、目立った言論活動は再開しなかった。映像制作会社で働き、96年に小さなプロダクションを設立。ドキュメンタリー番組などを手がけた。

 一水会の代表、木村三浩氏も言う。

「晩年は非戦や天皇陛下のお言葉に込められた祈りについて一貫して考えていました。(2019年に)一水会フォーラムで講演してもらった時もその内容でした。関西弁で話上手ですがシャイに感じました。流れだけでなく細かい部分にも触れたレジュメを作り、話していたのが印象的でした。気分で語らず体系化して伝えようとしていた」

 7月14日、肺炎のため84歳で逝去。05年ごろ、故郷の京都に戻っている。扇動家の面影はもう失われていた。

週刊新潮 2024年8月29日号掲載

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