「過激派の教祖」と呼ばれた滝田修氏の扇動と激変 釈放後語った持論は「右翼とか左翼とかいうのは遅れた考え」

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 過激派を扇動する滝田修氏(本名・竹本信弘)の言葉が注目されるようになったのは、1969年ごろからである。当時、滝田氏は京都大学の助手。全共闘系で頭角を現すが、組織や教条主義を嫌い、「ごちゃごちゃ言わんで、やらないかんのや」と既成の左翼を批判していく。

 革命を世直しと捉え、暴力抜きには実現できないと主張。ごく少人数の集団や個人が自在にぶちあたる闘争を広げて革命を起こすと説いた。関西弁で、そやろ、おまえら、と語りかけるような漫談調。具体的な戦術に乏しく、話に理論的支柱となるほどの中身はないが、アジテーターとして若者を引きつけた。組織を動かすことはなく、暴力も実行しない。だが、集団に属さないノンセクト・ラジカルを中心に影響を与え、やがて「過激派の教祖」「黒幕」と報じられる存在に。

 40年、京都市生まれ。父親は京都教育大学の教授。京大経済学部に進み、大学院ではポーランド生まれの政治理論家ローザ・ルクセンブルクについて研究。67年、京大助手になる。

自衛官刺殺事件で“指名手配”

 評論家の呉智英氏は言う。

「活動家として真面目というより、あけっぴろげで、おっちょこちょいに感じました。話や文章はロマンチシズムに富み、だんだん自己陶酔していく面がありました」

 思わぬところで人生は暗転する。71年8月、「赤衛軍」を名乗る過激派が陸上自衛隊の朝霞駐屯地に侵入、銃を奪おうとして自衛官を刺殺する事件が発生。主犯格の日本大学学生の自供から、首謀者として翌72年1月に指名手配されたのだ。

 身に覚えがないと否定したのに、妻子を残したまま潜行してしまう。映画監督や作家、画家など個人的支持者を頼って各地を転々。文章も発表し、「私の一日の逃亡と闘争は、敵国家警察権力の一日分の権威の失墜と等価であろう」と挑発するような内容も。

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