「農薬を使った野菜は危ない」論に有機農家が乗らない理由

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相変わらず「福島」と「汚染」を結び付けたい人たち

 原発事故の影響で、福島の農産物はまだ「汚染」されている、といった言説は、一頃ほどは目立たなくなったものの、いまだに一部ではそうした物言いをする人は存在する。最近でもX上で、こうした風評被害を広めるようなポストをした男性が強い批判を浴びるということがあった。

 日本政府はもちろんのこと、国際機関も現在、福島に居住している人が放射能で汚染されているといった立場を取っていない。危険な地域には人は住めないようになっているからだ。また、農産物の「汚染」も一切、問題視していない。極めて厳格な基準をもとに、安全が保証されているというのは、大方のコンセンサスである。それを覆すような客観的データはないとされる。

 一方で、どのようなデータを出しても、安心できないという人は一定数存在する。

 よく言う「安全と安心は違う」という話だ。

 両者の溝は極めて深く、埋めることは困難である。そのことは、X上での議論を見ても明らかだろう。

 福島の「汚染」についてのポストが批判されていた男性の過去の発言には、農薬を悪者扱いしているものもあった。農薬を用いた農産物は、無農薬のそれよりも価値が低いといった見解が述べられている。

 こちらもまた根深く、原発事故以前からさんざん議論され、科学的にはすでに結論が出ている問題だ。基準を守っている限り、農薬の危険性を気にする必要はない。「安全」は保証されている。しかしそれでも「安心」できない、という人は絶えない。

 実際に、有機農業で野菜を育て、販売している久松農園の久松達央さんは、この問題について、自著『キレイゴトぬきの農業論』で、「有機だから安全というのは神話に過ぎない」と明言している。農薬を使わない側の農家がなぜ、そんなことを言うのか。その説明をご紹介しよう(以下、同書をもとに再構成しました)

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「安全神話」のウソ

 世の中の人々が持っている、有機農業に関する誤ったイメージを、僕は「有機農業三つの神話」と呼んでいます。

神話1 有機だから安全

神話2 有機だから美味(おい)しい

神話3 有機だから環境にいい

 実際に有機農業を実践している立場から、ここでは神話1「有機だから安全」について検証してみたいと思います。

 結論から申し上げれば、「神話1 有機だから安全」は事実ではありません。

 有機農産物が危険だと言っている訳ではありません。有機農産物はもちろん安全です。どの程度安全かと言えば、適正に農薬を使った普通の農産物と“同程度”に安全です。

「そんなはずはない。農薬の危険性を指摘する本を読んだぞ!」という方もいらっしゃるかもしれません。確かに、かつての農薬の中には人に対する毒性が強い物もありました。農薬使用中の農業者の中毒事故が多発していた時代もあります。また、当時の農薬には作物への残留性の高い物、土壌に残留して長い間残るものもあり、1960年代から70年代にかけて大きな社会問題にもなりました。農薬の危険性を告発した有吉佐和子の『複合汚染』は人々に大きなインパクトを与えました。

 社会の関心の高まりの中、残留性の高い農薬や毒性が強い農薬への規制が厳しく改正され、メーカーの農薬開発も毒性の弱い物、残留性の低い物へとシフトしていきました。

 こうした流れを経て、現在の農薬の規制は、これ以上は無理なくらいに安全に配慮されています。残留農薬の規制がどのくらい厳しいものか見てみましょう。

 まず、該当する農薬について動物実験を行い、動物が一生涯毎日摂取しても健康に影響が出ないと確認された量を、安全係数の100で割った数値を、ヒトの1日許容摂取量(ADI)として設定します。ADIは、「ヒトが一生涯にわたって、毎日摂り続けても、健康上なんら悪影響がない量」です。次に、実際に人々が何をどれだけ食べているかの調査(国民栄養調査)に基づき、仮に摂取する全ての農産物にその農薬が基準値まで残留していても、その合計量がADIを超えないように、各農産物に割り振って残留基準が決められます。

 平たく言えば、こういうことです。

「仮にある農薬が、関連するすべての農産物に基準値上限まで残留していたとする。それを一生涯にわたって毎日、国民平均の100倍食べ続けたとしても、動物実験で健康に影響が出ない範囲に収まる」

 現実にそんなことはありえません。もしそんな無茶な食べ方をしたら、他の理由で体がおかしくなってしまいます。

人は水でも塩でも死ぬ

「毒にも薬にもならない」という表現がありますが、健康に影響が出るかは摂取する量によります。青酸カリのように毒性の強い物質は少量でも死に至ります。一方で、誰もが口にする身の回りの食べ物も毒性こそ低いものの、摂り過ぎれば必ず害があります。塩や水にも致死量はあるのです。成人男性であれば、200gくらいの食塩を一度に摂ると死に至ると言われています。食べ物のリスクは〈毒性×摂取量〉で表されます。つまり、どんなに毒性が低いものでも「食べ過ぎれば死ぬ」のです。でも、死ぬのが怖くて水を飲まないという人はいませんよね。同じように農薬でも放射能でも、摂取する量をコントロールすれば、健康を害する事はないのです。

「Rは体に悪い」という表現が日常的に使われていますが、これは実は日本語として成立していません。「Rという食べ物の中のQという物質は、このくらいの量を摂るとこのくらいのリスクがある」という表現が適切です。

安全と安心は違う

「どんなに理屈で説明されても、嫌な物は嫌だ。農薬がかかったものは安心して食べられない」という方もいらっしゃるでしょう。その考えを否定するつもりはありません。

 対で語られる事の多い「安全・安心」ですが、意味するところは全く違います。簡単に言えば、「安全」は客観的なもの、「安心」は主観的なもの。どちらが正しいとか上位とかではなく、別な概念です。

 複雑な現代社会で人々が認識を共有するために、科学的根拠や客観的事実は大切です。一方で、それを自分の中でどう解釈し、どう感じるかはその人自身の問題です。「安心材料」という言葉があるように、安全をはじめとする客観情報や科学的な思考は、自分という器に情報を取り入れる「材料」や「道具」に過ぎません。あとはその人自身が内部でそれを処理し、安心したり不安になったりするのです。

「腑に落ちる回路」は人それぞれで、他人が踏み込めない領域なのです。科学は安全を説明する事はできても、直接安心を与える事はできません。しかしだからと言って、科学の言葉で語られる客観的事実を認めなかったり、攻撃したりするのは無意味です。安全と安心は分けて考えなければならないのです。

 農薬は適正に使用する限り、食べる人に危険を及ぼす事はまずありません。農薬が「安全」なのは動かない科学的事実です。しかし、それで「安心」しない人がたくさんいる事もまた事実です。そこもまた他人には動かしようがないのです。自分の気持ちについて他人にとやかく言われる筋合いはありません。

 僕自身も、農薬の安全性に疑いを持っていませんが、自分では使っていません。生き物への影響もありますが、主たる理由は「何となくいやだから」です。それは僕の好みや美学の問題であり、合理性を超えた部分です。なので、僕の有機農業は「食べる人の安全のための無農薬」では全くないのです。意外に分かってもらえない部分なのですが……。説明が面倒なので「消費者の安全のためです!」と言ってしまえばいいのかもしれません(笑)。

そもそも有機農業とは何か

 僕の考える「有機農業とは何か?」をご説明します。

 僕は有機農業を、「生き物の仕組みを生かす農業」と定義しています。最近では植物工場のように、生き物の仕組みに頼らないタイプの農業技術も開発されていますが、有機農業では自然の仕組みにできるだけ逆らわず、生き物、特に土の微生物の力を生かすことを重視します。このような考え方は、ヨーロッパではビオ農法などと呼ばれています(アメリカではオーガニックという言葉を使う)。日本語では生物学的農法と訳されていますが、「有機」よりもビオ(bio=「生」「生命」)という言葉の方が僕の言っている「生き物の仕組みを生かす」を率直に表現していてしっくりきます。

 生き物は単独では生きられません。動物と植物、植物同士、植物と土の中の微生物はそれぞれ互いに影響し合い、共生しています。たとえば土壌微生物の中には、植物の根に棲(す)み付き、根から炭水化物をもらいながら、土壌から養分を取り込んで根に供給しているものがいます。弱肉強食の単純な力関係だけが自然の摂理ではありません。無数の生き物が相互に作用しながら、複雑なネットワークを形成して生態系全体を強く豊かにしているのです。それぞれの生き物が持つ機能、それが全体で回るシステム、これらを積極的に生かそうというのが有機農業の考え方です。

 土と植物の関係はまだ分かっていない事も多いのですが、知れば知るほどそれがいかに上手(うま)くできているかに感心します。そのシステムの、単純なようで複雑、脆(もろ)いようで強いさまに驚かされます。そうした生き物のしたたかさを利用しない手はない、というのが有機農業の基本的な考え方です。

有機野菜は「健康」な野菜

「安全な野菜じゃないなら、有機野菜ってどんな野菜なの?」

 そんな質問が聞こえてきます。食べ物としての安全性の文脈で語られる事の多い有機野菜ですが、そこは本質ではありません。既に述べたように、有機野菜と一般の野菜は安全性については違いがありません。

 有機野菜は安全な野菜ではなく「健康な野菜」であるべきだ、と僕は考えています。「健康な野菜」をもう少し丁寧に説明すれば、「その個体が生まれ持っている能力を最も発揮できている野菜」ということです。そして、健康に育った野菜は栄養価も高く美味しい。もちろん栽培の前提として、栽培時期、品種、鮮度の3要素が満たされているのは当然です。健康に育てることは、その先の話になります。

 作物を健康に育てるためには、畑の生き物を多様に保つのが近道です。特に、土の中の微生物の数と種類を増やすことが、質の高い作物を安定してつくることに大きく寄与します。先に述べた通り、生き物は相互に機能を果たしていますので、農業生態系においても畑の生き物を増やすことは、生産力や病害虫に対する抵抗力を高めます。僕が農薬を使わないのは、その生き物を殺したくないからです。特に土壌消毒と呼ばれる殺菌剤は、土の微生物を根絶やしにしてしまうもので、許容できません。倫理的に許せないとか、環境保全の観点から駄目だというのではなく、力を借りるべき生き物を減らすのは栽培者自身にとって合理的ではない、というのがその理由です。実利的に考えるからこそ、農薬は使わないというのが僕の立場です。

久松達央(ヒサマツ・タツオウ)
1970(昭和45)年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業後、帝人(株)で輸出営業に従事。1999年、農業へ転身し、久松農園を設立。年間50品目以上の旬の有機野菜を栽培し、会員消費者と都内の飲食店に直接販売をしている。著書に『キレイゴトぬきの農業論』『農家はもっと減っていい~農業の「常識」はウソだらけ~』『小さくて強い農業をつくる』。

デイリー新潮編集部

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