「いっそのこと、殺してしまおうか」重傷を負った戦友の手に握らせた自決用の手榴弾 #戦争の記憶

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 日米最後の地上戦が行われた沖縄戦は、総戦力に約10倍以上の差があったといわれている。圧倒的な兵力の差のもと悲劇の戦場と化した沖縄戦の悲惨さの全てを語り尽くすことはおよそ不可能である。

 激戦のさなかに深手を負い、自力で従軍できなくなった兵士たちの身に何が起こったか――。日本陸軍において、捕虜になることはタブーである。残された「選択肢」は限られていた。

※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集してお届けする。

「無意味な戦い」を延々と

 翌1945年5月6日も、我々は棚原高地で死闘を続けていた。ここで最後の命令文が、無線手からタコツボに投げ込まれる。
 
「状況変化す。貴大隊は(石)ミネ北側に転進すべし」

 ああ、総攻撃は失敗に終わったのか……。ここまで頑張ったのはなんだったのだろう。大隊は多くの将兵を失って撤退を余儀なくされるのだ。血涙を絞るとは、まさにこのようなことを言うのだろう。師団の各突進部隊は、4日黎明の攻撃に失敗して大損害を出し、5日の夕刻に攻勢の中止を決定した、と後で聞き及んだ。結局、我が大隊だけが棚原高地へ突進したかたちとなり、無意味な戦いを延々と繰り広げていたのだ。

 それにしても、これだけの重包囲の中をどうやって撤退するのか。退却は下手をすれば敗走につながり、壊滅する危険もある。
 
 ゆえに、退却にあらず、敵中を突破すると決めた。そして、いまだ戦い続けている各中小隊に伝令を出し、夜間の内に転進するための命令文を出すことにする。そこには、「突破」ということを強調し、最後に、「重傷者は自決できるように処置せよ」と書いた。

動けない重傷者に対する「つらい決断」

 動けぬ重傷者を担架などで運ぶことができればいいが、最悪の場合は全滅する恐れもある。いや、この状況だと全員が生き残れない可能性のほうが高い。連れて行けぬとなれば残すしかない。では、残置された兵は、自決か、捕虜になるか。日本陸軍において、捕虜になることはタブーである。
 
 ひとつ考えられるのは「殺してしまう」という選択。が、大切な部下を捕虜になる恐れがあるというだけで殺すことは断じて情が許さない。ここまで懸命に戦い、自力では動けないほどの重傷を負った勇者なのだ。
 
 であるのに友軍に見棄てられ、敵中に取り残される。こんなつらいことはないだろう。結局は、本人がどちらを選択してもいいように、「自決できるように処置」という表現を命令文に使った。具体的には、各人に手榴弾を持たせることである。
 
 とてつもなく苦しくて、つらい決断であった。

腹を負傷した一等兵の手に握らせたのは…

 かたわらの狭い溝に、重傷の黒川勝雄一等兵が横たわっている。総員五十余名の大隊本部に所属する兵卒で、年も若く、一番の下っ端として、将校や古参兵にこき使われていた。が、どんな局面でも、皆の役に立ちたいと、汗を流して走り回る姿が好ましく、厳しい軍隊生活を続けてきた先輩たちにも可愛がられていた。
 
 その黒川が腹をやられている。意識はあるものの、立って歩くことはままならない。敵が投げた手榴弾が転がってきて、身体が浮いた後は気を失った、と悔しそうに話す。くりくりとした目を見開き、大きな声で受け答えする一生懸命な姿が、齢の近い私の弟と重なる。他人とは思えない感情を抱いていた。
 
 心を鬼にして、私が腰に着けていた二つの手榴弾のうちのひとつを外し、手に握らせる。

「大隊は今から転進する。もし敵が来たら、これで……、な」

「いやだ、いやだ。連れていってください」

 黒川一等兵は無言であった。
 
「鉄帽でも石でもぶつければ、すぐに破裂するからなぁ」

 沈黙に耐えかねて続けると、突如、堰を切ったように哀願の声が響く。
 
「いやだ、いやだ。連れていってください」

 溝の底から甘えるように見上げる、幼さが残る顔は涙で濡れていた。
 
 それ以上は何も言えず、顔を背けるしかなかった。
 
 黒川一等兵と同郷の樫木副官が、代わって静かに諭す。皆と一緒にこれからも戦いたい、戦果を挙げて家族の待つ故郷へ帰るんだ、と訴えているようだ。そのやりとりを目にした戦友たちのすすり泣く声が、夜の静寂に漂った。

 ***

『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部抜粋・再編集。

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