「無惨な最期」で戦死した部下…遺族と面会した元指揮官が取った思いがけない行動とは #戦争の記憶
「この世の地獄」と形容された沖縄戦で、無念のうちに戦死した倉田貫一さん(=中尉、享年38)と、郷里に残された妻・琴さん。
貫一さんが所属した第24師団歩兵第32連隊・第1大隊を率いていた伊東孝一大隊長は、部下のおよそ9割を死なせてしまった罪の意識から、戦後、その遺族たちに宛てて「詫び状」を送り続ける。「肉一切れも残さず飛び散ってしまったのですか」――大隊長へ宛てた手紙の中で、夫の死に様についてストレートに尋ねる琴さん。
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それから数十年もの時を経て、琴さんの手紙はその長男のもとへと「返還」され、彼は伊東大隊長との面会を切望する。
※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集し、全3回にわたってお届けする。【本記事は全3回の第3回です/最初から読む】
無惨きわまる部下の最期、それを遺族にどう伝えるか
琴さんの手紙を読み上げる学生ボランティアの根本里美の声に耳を傾けながら、手紙の原本に目を落とし、母の書いた文字を追っていた長男・紀(おさむ)さんの表情が変わった。目には涙が浮かんでいる。そして時折、唇を噛みしめながら頷き始めた。
倉田貫一さんは棚原(たなばる)高地の激戦で、まさに全身が四散して戦没している。伊東大隊長も、その無惨な最期を家族にどう伝えるべきか悩んでいたという。一方で琴さんは、事前に聞き及んだ夫の最期の瞬間を確かめようと、死に水は、遺品は、と手紙の中で問いかけている。
さらには、遺体の始末をした相手や復員した部下への礼節にも気を配る。こうした内容を、夫の親類や友人らに報告するため、常人では耳をふさぎたくなるような悲惨な死にざまの詳細を探っていたのだ。
「この手紙がなければ、死ぬまで誤解したままだった」
妻としての母の手紙に目を通した紀さんは、朗読を終えた学生がさらに伊東大隊長からのメッセージを読み上げた後、不自然に中座する。待っていると、目を真っ赤に腫らして戻ってきた。
「新しい夫への配慮と家を守るため、母はあえて父のことを忘れようとしていたのですね。その葛藤がどれほどであったか……。母の苦悩が、しみじみと伝わってきました。今さら後悔しても仕方ないけれど、この手紙が私を変えてくれそうです」
好きになれなかった義父、母への反感を考え直すきっかけを得られそうだ、と語る紀さん。胸のつかえが取れたような表情で、もう一度、文面に目を落とす。
「母がこんなにも父を想い、愛していたとは思いもしませんでした。この手紙がなければ、私は死ぬまで誤解したままだった。ありがとうございます。生きていてよかった」
私たちの努力や想いが報われる瞬間でもあった。
「もし可能ならば、伊東さんに面会できませんか。是非、お会いして父の話を聞き、お礼も申し述べたい」
紀さんが襟を正し、願い出る。
大隊長によると、手紙のやりとりがあった直後、琴さんが再婚することになる貫一さんの弟と訪ねてきたそうだ。今回、この手紙を受け取った紀さんが面会を望まれていると伝えると、小考の末、快諾してくれた。
戦死した父の元上官が、床に両手をつき……
同じ年の冬、もう一組の北海道の遺族と一緒に横浜にある伊東大隊長の自宅を訪ねた。大隊長は、その席でいきなり床に膝を折り、両手をつき頭を下げる。
「私は、皆様の大事な親御さんを戦死させた責任者のひとりです」
ポロポロと涙がこぼれた。
「太平洋戦争は無謀にして、実に愚かな戦争でした。にもかかわらず我が大隊の将兵の戦いぶりは実に傑出したもので、誇るに足ると確信しています。これが根底にあり、ご遺族に無駄死にでなかったことをお伝えするのが責務と感じていました」
一気に話し、さらに言葉を続ける。
「終戦とともに軍は解体させられ、国家として戦死を伝達する組織さえ失っていたのです。ご遺族を思えば、一刻も早く立派な戦死であったことを伝えるのが、指揮官であった私の責務。その思いがご遺族への手紙となりました」
今は白髪となった大隊長の渾身の謝罪に、誰も言葉を発する者はいない。
後に紀さんは、このように語った。
「母と義父が一緒に伊東元大隊長を訪ねていたことを、初めて知りました。今から思えば、よくぞ母の手紙を残してくれたものです。これがなければ、戦没した父と母の愛や想いを理解できませんでした。伊東さんには、心からの感謝を申し上げたい」
【終】
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※『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部抜粋・再編集。