「金づちで毛布を壁に打ち付け…」 お忍びで温泉宿を訪れた美空ひばりの”謎の行動”… 大女将が追憶

エンタメ

  • ブックマーク

 来年は「昭和100年」。その節目を記念して、時代を彩ったスターたちと温泉をテーマにした一冊『宿帳が語る昭和100年 温泉で素顔を見せたあの人』(潮出版社)が刊行された。著者である山崎まゆみさんが、宿の主人や女将(おかみ)たちから聞いた秘話を厳選。美空ひばりがお忍びで訪れた宿で放った“意外”な一言を、大女将が追憶する。【山崎まゆみ/温泉エッセイスト】

 ***

いわき湯本温泉「雨情の宿 新つた」(福島県)

 日本人たるもの、政治家も文豪もスターも、温泉旅館に滞在してくつろげば、素顔をさらしてしまうものだが、美空ひばりにおいてはそうしたエピソードがほとんど出てこない。

 残された話に共通しているのは、ひばりを受け入れた宿側の人たちの熱狂ぶりと、彼女の滞在時間の短さだった。美空ひばりはどうして温泉旅館でも素顔をさらすことがなかったのか。

 その理由を語ってくれたのは、福島県いわき湯本温泉「新つた」の大女将・若松キンさんだ。

 ひばりが「新つた」にやって来たのは、昭和40年代、まだ30歳を超えた頃のこと。昭和39(1964)年に開催された東京オリンピック後、「柔(やわら)」が180万枚という、当時の彼女にとって最大のヒット曲となり、昭和40(1965)年には第7回日本レコード大賞を受賞。

 翌年には「悲しい酒」が145万枚、その後も「真赤な太陽」が140万枚の売り上げを記録。まさに昭和40年代はひばりの全盛期である。

異常なほどの素早さ

 そんな歌姫と「新つた」を結び付けたのは、宿の常連だった興行師だった。

 この日も、ひばりは茨城県水戸市でステージを終え、母の喜美枝、弟と興行師といういつもの一行で「新つた」に到着した。

 その時の様子を当時、若女将だった若松さんは鮮明に覚えている。

「地味な色の洋服を着て、帽子を深くかぶり、サングラスと大きなマスクをしていました。玄関に到着されると、ひばりさんは駆け足でお部屋に向かわれ、その素早さは異常なほどで、私もお出迎えした従業員たちも、ひばりさんのお顔を見る隙はなかったです」

 ひばりの部屋として用意されたのは特別室。10畳の居間とベッドルーム、そして3畳の小上がりがある広い部屋だったが、

「ひばりさんのお母さまの喜美枝さんが『もっと狭い部屋を』と希望されまして、6畳1間の部屋に変えました」(同)

次ページ:「お部屋の壁や柱に毛布を打ち付けて…」

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。