「映画界に転じて大成功した最初の金メダリスト」 “6代目ターザン”ワイズミュラーは「100年前のパリ五輪」に水泳選手として出場していた(小林信也)

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 パリが五輪の舞台になるのは1900年(第2回)、24年(第8回)に続いて3度目。ちょうど100年前のパリ五輪で最も輝いたのは陸上中長距離で5個(通算8個目)の金メダルを取ったパーヴォ・ヌルミ(フィンランド)。短距離では、映画「炎のランナー」で描かれた走者たちのドラマも生まれた。さらに後世、最も世界的に著名になったのが水泳で3個の金メダルを取ったジョニー・ワイズミュラー(米)だ。

 22年、デューク・カハナモク(米)が持っていた100メートル自由形の世界記録を更新し注目されたワイズミュラーは、パリ五輪の競泳100メートル自由形、400メートル自由形、自由形リレーで優勝。さらに水球でも銅メダルを獲得した。4年後のアムステルダム五輪でも2個の金メダルを取っている。

 24年7月21日の読売新聞に《国際オリンピツク大会 水泳》《高石三着となる》の見出しで、19日の結果がごく小さく報じられている。三面の最下段。上段を埋めるのは《恐ろしく高い郊外の物価》《東京中で一番暑い街》といった記事だから、当時オリンピックへの関心が日本で高くなかったことを感じさせる。記事はこうある。

〈(パリ十九日国際発)百米自由型競泳予選成績左の通り 一着ヂユークガナハ(ママ)モク(米)一分一秒五分の一(中略)三着高石勝男(日)一着ワイスミユラー(米)一分五分の四秒〉

 日本代表の高石はタイム及ばず準決勝敗退と添えられている。決勝では、ワイズミュラーが59秒0の快記録で優勝を飾った。

「類猿人ターザン」に主演

 彼は28年、朝日新聞主催の国際水上競技大会出場のため来日している。この時、アメリカ選手の移動は船。その航海中の様子が、同紙で《人か魚か? 船中の驚異》の見出しで次のように報じられている。

〈ワイスミユラー選手は独特のスタートにおける猛烈なダツシユとあざらしの如き軽妙なるターンで完全に観衆一同の心をチヤームした〉

 それから片手泳ぎや手先泳ぎなどの曲泳をいくつか披露した後、番外の余興で牛の鳴き声や汽笛のまねなどもして肺活量の大きさを誇示した。さらには水底を2分間くらい泳ぎ回って、ヒューマン・フィッシュのあだ名に背かないことを立証した、などとある。

 後の成功を暗示するような記事にも感じる。ワイズミュラーは引退後、下着メーカーBVDのモデルとなり、「アメリカ娘に栄光あれ」などの映画に出演した後、代役で起用された映画「類猿人ターザン」(32年)で6代目ターザンを演じ、大人気を得た。

 ターザンを演じた男優はワイズミュラーの前にも後にも多数いるが、「ターザンといえばワイズミュラー」と今でも伝説的に語られる。映画ファンの多くは、彼がオリンピックの金メダリストであることさえ知らないかもしれない。その意味で、映画界に転じて大成功した最初の金メダリストともいえるだろう。

 初演の後、「ターザンの復讐」(34年)、「ターザンの逆襲」(36年)、「ターザンの猛襲」(39年)と次々にヒットを飛ばし、48年「絶海のターザン」まで計12本に主演した。

 戦後生まれの私でさえ、ワイズミュラーのターザンをリアルタイムで見たかの印象がある。彼の存在は、日本の俳優や表現者たちにも影響を与えた。「木枯し紋次郎」で一世を風靡した中村敦夫は語っている。

〈東京から地方に疎開した子どもはよく「いじめ」の対象になったといいますが、私はガキ大将でしたね。ジョニー・ワイズミュラーが出演したターザン映画に夢中になり、里山の木の枝に縛ったロープにぶら下がって「ア~アア~~」と叫んで遊びました。まるで「密林の王者」気取りでした〉(2021年12月2日朝日新聞)

 漫画「サザエさん」にも映画ターザンは登場する。まだ夕刊フクニチで連載されていたころ、カツオが「2回見ちゃった」と興奮する場面がある。日本では60年代まで、お盆と正月の定番映画だった。

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