「真っ黒のグラマン戦闘機が頭上ギリギリに覆いかぶさって…」 小学3年生だった横尾忠則の“恐怖の戦争体験”
終戦記念日が近づくと戦争の記事が新聞紙面を埋めつくします。僕は小学3年生の時に終戦を迎えるのですがこの年はすでに本土空爆の末期を迎えていました。幸い僕の郷里(当時の兵庫県西脇町)は空爆の対象にはならなかったのですが、それも時間の問題だったと思います。
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終戦の前年位だったか、初めてB29が飛行雲を噴(は)いて上空を飛行しているのを見た時は、まるで銀の十字架のように機体が青空を背景に輝やいて見えました。そのB29に日本の小さい飛行機が飛びかかっていくのを見ましたが、B29の高度には届きません。そんな日本の飛行機を尻目にしながらB29は雄然と上空をわが者顔で制覇していました。
とはいうものの、夜になると、警戒警報のサイレンと共に町の灯は消えて真暗になります。寝床の中で上空を通過していくB29の爆音を聞きながら、いつでも防空壕に飛んでいけるように、防空頭巾をかぶって布団の中で震るえていました。両親は幼い僕の命を守るために必死だったと思います。
僕がグラマン戦闘機に遭遇したのは小学3年生の年だったと思います。運動場に全生徒1000人を集めて校長先生の朝会が始まって間もなくの時、場所は運動場の背後の八日山(ようかやま)という、町のはずれにあるこんもりとした高い山でした。
その山の背後から音もなく、いきなり3機(4機だったという者もいました)のグラマン戦闘機が、襲うように降下してきたのです。普通なら警戒警報か空襲警報のサイレンが鳴るはずですが、レーダーに映らないほどの低空で飛来してきたために、機体の存在をキャッチできなかったようです。
だから、実に呑気に朝会が始まっていたのです。全生徒は山を背後にしているので山越えに襲来してきたグラマン戦闘機の存在に気づきません。それを最初に発見したのは恐らく朝会台に立っていた校長先生と、生徒と向い合って立っていたクラス担当の30人ばかりの先生達です。
何の予告もなくいきなり目の前の山の頂上から物凄い勢いで襲ってきたグラマン戦闘機に先生達は動転して、生徒に「逃げろ!」とか「伏せろ!」とか大声で怒鳴ったはずです。僕は先頭の方に並んでいたので、そのまま校舎と校舎の間の中庭に走って逃げ、細いコンクリートの溝に飛び込んで、両手で目を押さえ、親指で耳をふさぎました。日頃から、空襲時には、眼球が飛び出さないように、耳の鼓膜が破れないようにと、訓練をしていたので、僕はすぐ実行しました。
中庭に逃げる瞬間、ふと背後を見たら、真黒のグラマン戦闘機が山の頂上から、すくい上げるように降下してくる瞬間で、われわれの頭上ギリギリに覆いかぶさってきたのです。その時にパイロットの顔を見ました。若い飛行兵でしたが、不思議なことにパイロットの誰ひとり、機銃掃射をしなかったのです。
グラマン戦闘機はB29のような爆撃機ではなく、地上すれすれに飛行しながら逃げまどう人間をターゲットにして機上から機関銃を撃つのが目的です。だから運動場の1000人の子供は完全に彼等のターゲットになってもおかしくなかったのです。だけど彼等がなぜか撃たなかったことが、僕達にとっては幸運だったのです。
いきなり山を越えた途端、目の前に広がる運動場に子供が1000人もいた。そんな予想もしない光景にきっとパイロット達は、手にした機関銃の引き金にかけた指が止まってしまったのではないかと想像しました。
いくら敵国の人間だとしても、目の前に並んで立っている子供に向って機銃掃射をあびせられなかったのではないでしょうか。山から滑空してくるグラマン機の体勢は如何にも襲撃を目的としたものでした。それがどの機のパイロットも誰ひとり銃の引き金を引かなかったのです。やはり子供を相手に撃てなかったのだと思います。これをヒューマニズムの美談として認めてしまうことはできませんが、とにかく1000人の子供全員が命拾いをしたのです。
戦闘機がわれわれの頭上を物凄い爆音を立て、校舎のガラスを震るわせながら飛行していった瞬間、僕はせまい溝の中からやっと身体を起こして、皆んなと殺されなかった幸運をお互いに喜び合ったものです。
このニュースは小さい町にもかかわらず大半の町民達は知りませんでした。この恐怖の戦争体験をしたのは運動場にいた先生と1000人の生徒達だけです。だからきっと町史にも記述されていない幻の空襲ということになっているはずです。大半の町民は子供から聞いて、多分子供の語った集合的無意識のようなフィックションぐらいに認識していたんじゃないかと思います。
こんなたった一瞬の出来事が僕の人生の1頁に刻印されたまま、その記憶と共に今も、これからも死の意識と共に生きていくように思います。