「映画はそのうち駄目になる」街頭テレビが生んだ「戦後復興のヒーロー」力道山が、今際の際に“3本の指”を示した理由

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「テレビの時代」を意識したビジュアル

 力道山が日本にプロレスを持ち帰った1953(昭和28)年、テレビの時代も始まった。2月にNHKの東京テレビジョン、8月に初の民放となる日本テレビが、それぞれ本放送を始めた。両局とも翌年の対シャープ兄弟戦を中継。アメリカ生活を経験した力道山はテレビの隆盛を早くから予見し、「映画はそのうち駄目になる」と話していたという。

 57年には、日本テレビがレギュラー番組「プロレス・ファイトメン・アワー」を始めた。当時、テレビの普及率は1割足らずしかなく、週末土曜の夕方になると人々はテレビのある家や電器店の前に集まった。普及率は力道山人気と共に高まり、59年の皇太子成婚で跳ね上がった。

 ビジュアルを意識した人だった。全身が鋼のような筋肉で覆われた颯爽とした姿は、あの黒のロングタイツで引き立てられたと言っても過言でないだろう。戦争末期の下積み力士時代から始まった不撓不屈の人生。戦後、関脇の地位を捨ててプロレスに転じ、テレビ中継を通じて全国のファンを沸かせた。そこには朝鮮人ゆえに受ける差別や偏見に対する反抗心が渦巻き、昭和の人気ヒーローとしての誇り高さと同時に傲慢さもうかがえる。いまや遠い伝説になってしまった昭和のプロレス界の話だが、だからこそ悲しく、切ないものがある。

 最後に13年前に出版された書籍について触れておきたい。増田俊也・著『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』(新潮社)。主人公は柔道家・木村政彦(1917~1993)。「鬼の木村」と謳われ、戦後はプロレスラーに転身するが、力道山との「昭和の巌流島」に敗れる。真剣勝負ならば木村は勝っていたという。

 一般に、プロレスには「台本」があるといわれている。紙に書かれたものではなくても、四角いリングの中で戦う上での暗黙の了解というか、ルールというものがある。木村VS力道山は「引き分け」という筋書きであったというが、力道山が「念書」を無視した。やはり、興行師(ビジネスマン)として生きんとするプロレスラーと、武道家として生きていきたいという柔道家との間では、大きな隔たりがあった。なんとも後味の悪い「巌流島」。木村は再戦と報復を企図するが、結局、果たせなかった。そして、あの赤坂の夜の悲劇を迎えてしまうのである。

 それにしても、力道山がたとえ「虚構の英雄」だったとしても、その虚構の英雄すらいない現代は、果たして幸せなのだろうか。ひばりも、萬屋錦之介(1932~1997)も、石原裕次郎(1934~1987)も、渥美清(1928~1996)も、みな旅立った。

 次回は「テキサスの荒馬」の異名をとったプロレスラー、テリー・ファンク(1944~2023)。あの伝説のタッグマッチを、当時、高校生だった筆者は、蔵前国技館(東京・台東区)で見ている。当時の模様を再現しつつ、多くの日本人に愛されたテリーの魅力に迫りたい。

小泉信一(こいずみ・しんいち)
朝日新聞編集委員。1961年、神奈川県川崎市生まれ。新聞記者歴36年。一度も管理職に就かず現場を貫いた全国紙唯一の「大衆文化担当」記者。東京社会部の遊軍記者として活躍後は、編集委員として数々の連載やコラムを担当。『寅さんの伝言』(講談社)、『裏昭和史探検』(朝日新聞出版)、『絶滅危惧種記者 群馬を書く』(コトノハ)など著書も多い。

デイリー新潮編集部

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