火薬を詰めた箱を背負って…「人間爆弾」となりアメリカ戦車に体当たりした日本兵たち #戦争の記憶
「ありったけの地獄を集めた」といわれる沖縄戦。兵員の数はもちろん、武器弾薬や医療品、食料など物資の面でも米軍に圧倒されていた日本軍にとって、「勝てるはずのない戦争」なのは明らかだった。
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当時、積極的に行われていたのが米戦車をターゲットにした肉弾攻撃だ。日本兵は、それぞれ破甲爆雷(投げつけるか、直接、装甲に貼り付ける)を手に、あるいは急造爆雷(木の箱に火薬を詰めたもの)を背負って敵軍に立ち向かったものの……。
※本記事は、浜田哲二氏、浜田律子氏による著書『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部を抜粋・再編集してお届けする。
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40キロの装備を背負い、闇夜の進軍
沖縄地方の梅雨入りは例年5月上旬であり、その少し前の時期は夕刻から未明にかけて雨が降ることが多い。敵に察知されないようにするため、移動は夜間に限られるので、泥濘と化した山道を40キロ近い装備を背負って進む兵たちの難苦は、想像をはるかに超えていた。
おまけに敵が2~3分おきに照明弾を打ち上げるので、異常な明るさに眩んだ眼は暗闇に戻ると何も見えなくなる。仕方なしに、暗くもなく、明るくもない時を選んで進むしかない。ようやく稜線に出て振り返ると、兵たちが黒い列をなして続いているのが闇に浮かんだ。もう前線は近い。
(中略)
やがて砲火が途絶え、照明弾が止んだ。東の空が白み始めて、右前方に中城(なかぐすく)湾が見えてくる。薄明の中に点々と浮かんでいるのは敵の艦船だ。大小様々の群れに思わず息を呑む。これから戦うべき敵の物量をまざまざと見せられたのだ。
あまりに貧弱な陣地に絶望
夜が明けきった頃、地図上で予定していた大隊本部の位置にようやく辿り着く。兵は疲れ果て、敵方の斜面に腰を下ろしてぼんやりしている。このままでは危ないと心配していると、副官が数個の墓穴を見つけてきた。
沖縄の伝統的な墓は、岩の割れ目に横穴を掘るか、石を囲んだ形状をしたものが多く、中には10人くらいは入れる広さがある。ひとまず大隊本部をそこへ入れた。戦のためとはいえ先祖を祀る大切な場所を暴いてしまって申し訳ない、と詫びながら。
ここで一息つきたいところだが、師団司令部への報告があるし、敵情の捜索も必要だ。であるのに心が重い。守るべき地の陣地があまりに貧弱だからだ。この地で戦う部下たちの命を、どれだけ失わずに済むだろうか。
というのも、糸満に設営した地下要塞に比べると、墓穴のほかに利用できそうな洞窟が見当たらないのだ。これではタコツボ(個人用の塹壕)を急造するしかない。弱者の戦法の第一歩である堅固な陣地で戦う望みは完全に消えた。猛烈な集中砲火にどれだけ持ち堪えられるのか、暗い予感がする。その夜は敵との戦いを予期して、さすがによく眠れなかった。
空を震わせた敵艦砲の破裂音
4月27日となり、夜の明けぬうちに洞窟を出た。暗闇の中に静かに横たわる沖縄の山々は、一幅の墨絵のようだ。しかし、この静寂も、鉄火の洗礼の下で、様相を一変させるだろう。私にとっては軍人を志して以来の初戦である。感慨は、明け初めてきた空を震わせる敵艦砲の破裂音によって破られた。
戦いの火蓋が切られたのだ。
日が高くなると、敵の陸上砲兵の集中砲火が強まり、一足先に突進していた大山昇一中尉率いる第2中隊のいる小波津(こはつ)西側の丘に設けた野戦陣地へ向けられた。砲火は熾烈を極め、土煙に包まれて何も見えない。
やがて延々と続いていた砲声がパタリと止んで、銃声が聞こえ始める。前進する敵の歩兵へ、大山隊が応戦しているのだ。
「大山隊戦闘開始!」
伝令が叫びながら、大隊本部へ飛び込んできた。
ただちに命令を発す。
「各隊は計画に基づき戦闘を実行すべし」
この時から、我が大隊の将兵を地獄へ引き込む戦端が、亜熱帯の山野を舞台に開かれた。
爆弾を背負って、米戦車に体当たり
第2中隊に所属する田中幸八上等兵も、この激戦の最前線で配置についていた。米軍の物量による攻撃はすさまじく、砲撃が止むと、すぐ目前にまで戦車や歩兵が迫ってくる。それに対し、連隊砲が頭越しに砲撃を開始。友軍の射撃は正確で、敵戦車が一両、また一両と破壊され、動けなくなる。
「よし、いいぞ!」
タコツボに身を屈めていた田中上等兵が思わず声を上げた。入営まで、大口径の火砲などを製造する大阪の陸軍造兵廠で働いていたので、自軍の砲の活躍は自らの手柄のように誇らしかったようだ。
しかし、敵の戦闘意欲は侮りがたく、次々と新しい戦車が前方や側面から出現、独特の地響きを立てながら前進し、頻繁に砲撃してくる。その後ろには一定の距離をおいて歩兵が随行し、戦車へ走り寄って肉薄攻撃を仕掛けると、狙い撃たれるのだ。
ゆえに我が軍の歩兵の対戦車戦は、タコツボや通行壕の中に身を潜めてじゅうぶんに引き付けてから、磁力吸着式の破甲爆雷や背負子(しょいこ)がついた急造爆雷などで立ち向かう。ただ、連発式の自動小銃など、最新の武器を手にした後続の歩兵は、とてつもなく手強い。だから、ギリギリの間が勝敗を分けるのだ。
数人の日本兵が飛び出して…
田中上等兵は、背負子式の急造爆雷を最初に目にしたとき、不安がよぎったという。
「こんな、木の箱に詰めただけの火薬……。きちんと発火するのでしょうか」
造兵廠で製造していた重厚な大砲や砲弾に比べると、あまりにも貧弱すぎると感じたようだ。でも、物資が足りない日本軍。今はこれしかないのだ、と自らに言い聞かせながら、最前線へ赴いていった。
敵の戦車が中隊の指揮所に迫っている。ここで大山中隊長たちがやられたら、隊は総崩れになってしまう。田中上等兵たちが潜んでいるタコツボから、数人の日本兵が飛びだした。米兵が放つ銃声とほぼ同時に爆発音が鳴り響いて、土煙があがる。米戦車の進撃が止まっていた。
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※『ずっと、ずっと帰りを待っていました 「沖縄戦」指揮官と遺族の往復書簡』より一部抜粋・再編集。