「サイレント・イヴ」の辛島美登里 大学時代までは「就職して、見通しの明るい人と結婚するのが一番いいと思っていた」のに…

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「辛島さんもCD出してみる?」と

 鹿児島の実家に帰ったその日、夕ご飯を食べながら今後の話をしようという直前、東京から電話がかかってきた――「永井真理子さんに提供していた『瞳・元気』が受かったよ」。永井は1987年7月にシングル「Oh,ムーンライト」でデビューしたばかり。「瞳・元気」はセカンドシングルとして同年11月にリリースされ、翌年1月のアルバム「元気予報」にも収録された。

 以後も、永井のサードアルバム「Tobikkiri」に「Fight!」など3曲を提供。同アルバムはオリコンチャートで最高位4位を獲得し、辛島の作曲家としての認知度も上がってきていた。並行してOVA(オリジナル・ビデオ・アニメーション)の「魔境外伝レディウス」や「聖戦士ダンバイン」などのテーマソングを作り、自身で歌い、自身の名義で音源も発売されてはいた。

「その頃も『辛島さん、歌わなきゃ』とは言われていましたが、やはり性格的に人前に出て歌うのは苦手で。職人的に曲を作って、それを歌ってもらうのが好きだったんです。でも曲提供のときには、仮歌を自分で吹き込んでデモテープをお渡しするんです。(永井)真理子ちゃんのときもそうだったんですが、真理子ちゃんのプロデューサーだった金子文枝さんに『辛島さんもCD出してみる?』と言われて……」

 当時は来生たかおらソングライターが自ら歌い、ヒットするケースも多くなっていた。「じゃあ私もCD出せば、曲の依頼が増えるかな?」という動機で、CDを出すことに。1989年6月のシングル「時間旅行」、そして7月のアルバム「Gently」で正式にデビューした。

「当時は作家として曲を提供していて、デモテープを聴いた人から『辛島さん、これ歌ってみたら?』と言われて歌う機会も増えていたんです。でも、正式デビューのときには、プロフィール写真も時間をかけて撮ってもらい、自分でプロモーション活動もして。それ以前は、歌う立場のプロ意識というよりスタッフ側の感覚だったので、私なりに線引きをしているんです」

 28歳という遅咲きのデビューにはこんな理由があったのだ。もちろん、曲提供も続けており、辛島の公式デビュー直前に発売された永井の4枚目のアルバム「Miracle Girl」には、後に自身でセルフカバーした「Keep On “Keeping On”」など2曲を提供するなど、作家としても着々と階段を上り続けていた。

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 シンガーソングライターの道を本格的に歩み始めた辛島。第2回【主題歌担当のドラマ「クリスマス・イヴ」は「テレビの前で正座して観ていた」 辛島美登里が語った大ヒットの裏側】では、自身最大のヒット曲となった「サイレント・イヴ」などをはじめ、近年の恒例のライブなどについて語っている。

デイリー新潮編集部

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