「サイレント・イヴ」の辛島美登里 大学時代までは「就職して、見通しの明るい人と結婚するのが一番いいと思っていた」のに…
手の届かない世界だと思っていたのに
辛島の中では「やりきれたな」という思いもあり、大学3年で就職戦線も現実の道として見えてきた頃には、こんな将来も描いていたという。
「高校受験に失敗して浪人したこともあって、『もう踏み外したくない』という思いが強かったんですね。父も公務員だし、本当に真面目な家庭で、音楽でチャラチャラやってすぐにポシャってしまうぐらいだったら、ちゃんとしたところに就職して、見通しの明るい人と結婚するのが一番いいと思っていたんです」
その言葉通り、奈良女子大では家政学部を選び、高等学校の家庭科教員になろうと、母校の鹿児島県立鶴丸高校へ教育実習にも行き、教員免許を取得した。実際にその道に進んでいたら、数々の名曲が世に出ることはなかったのかもしれない。
ただ、ポプコンのグランプリで垣間見た世界への憧憬は、簡単に捨てられるようなものでなかったことも事実だった。
「自分では到底手の届かない世界だと思っていたのが、一度扉を開けてしまった。見てみると可能性も見えてしまって。その思いが止められなくなって、周りのみんなが就職活動をしていても、私はする気にもなれなくて。可能性がせっかく見えるならもう少し進んでみたいと考えました」
「ダメだったらお見合いでも何でもする」
そんな思いを巡らせている頃に、世話になったヤマハの関係者から聞いたのが、東京にある「ヤマハ音楽院」の存在。自身は中学でピアノをやめていたこともあり、「ピアノの基本的なことを何も知らなかった」という。だが、ピアノ練習室を自由に使えること、2年間は籍を置けることなどを知り、「2年間頑張ってダメだったら、鹿児島に帰ってお見合いでも何でもするから」と両親を説得した。
両親も「美登里がそこまで言うなら、頑張りなさい」と快く送り出してくれて、寮費が月額300円と破格に安かった奈良の頃と比べて、倍近い額の仕送りを続けてくれた。
ヤマハ音楽院の寮には同僚の女性が4~5人おり、「みんな仲良し」で寂しさとは無縁の東京生活。音楽院の先生から「事務所を作りたいので、曲を書ける子を探している」と声を掛けられ、好きだった曲作りを続けていた。だが、曲を書いてあらゆるオーディションに出してもなかなか受からなかったという。
「もう、書いては落ち、書いては落ち、という状態で……。これで自分はやっていけるのか、食べていけるのかという思いで悶々とした日々が続いていたんです」
「あの人のアルバムに入れる曲を探しているよ」と先生から聞いては、曲を書いて渡し、それを出してもらっては落ちる……という日々が続き、やがて、自身で区切った2年が過ぎた。それでも続けていたが、応援し続けてくれていた父から「1度、こっちに帰ってきて、今後のことを話そうか」といわれ、鹿児島に帰った。東京でもがき始めてから2年半の月日が流れていた。
[2/3ページ]