「甲子園球場最寄りではありません」と言い続けて90年 スタジアムまで徒歩30分「甲子園口駅」が生まれたきっかけ
1934年7月20日に開業
こうなると、甲子園球場がある鳴尾村やその北にある瓦木村でも人口が増え、東海道本線沿線に新駅を作ろうという動きが生まれてくる。
しかし、すでに電車が走っていた阪神と異なり、当時の東海道線は非電化で蒸気機関車による運転。国の大動脈として長距離の旅客列車や貨物列車を優先していたので、甲子園周辺にあった駅は西ノ宮のみだった。
電車より加減速の性能が劣る蒸気機関車では、私鉄のようにこまめに駅に停まることが難しい上に、長距離列車の走るダイヤを確保したいので省線に新駅を作るメリットは薄かった。
そんな鉄道省でも、1930年代に入ると大津~明石間の電化に着手する。これに合わせて大阪~西ノ宮間の村々はこぞって新駅の誘致運動を展開した。甲子園の北の瓦木村でも設置費用の地元負担と土地提供のめどが立ったことで、鉄道省が駅設置を認めた。
これが甲子園口駅で、1934年7月20日に開業。立花駅・塚本駅と同時の開業で、いずれの駅も今でも各駅停車しか停まらない。それでも電化に合わせて運転が始まった電車列車が毎時4本停車し、阪神間の住宅地にあって使いやすい駅になった。
すでに球場が完成して10年。開発が進んだ一帯の通称から「甲子園口」を駅名に採用した。開業までの経緯を「瓦木村誌」は、「景勝地であり開発が進んだ一帯であったことが駅設置に有利に働いた」とまとめている。
戦後、瓦木村や鳴尾村が西宮市と合併して、現在の西宮市が形成されていく。地名も改訂され、甲子園口駅付近は正式に「甲子園口」に、また甲子園一番町から九番町、浜甲子園や上甲子園といった地名表記が地図に加わった。この一番町から九番町という町名は、阪神電鉄により区画を区切って分譲が進められた順番に由来する。
各駅停車しか停まらない甲子園口駅だが、平成初期までより古い西ノ宮駅よりも乗降客は多かった。西ノ宮駅にはアサヒビールや住友セメントの工場が近接して貨物駅でもあったのに対し、甲子園口駅は南北ともに住宅が広がり、駅南口から甲子園球場の方角には開業当時から商店街が広がっていて、西宮市でも最大級の商店街でもある。阪神の甲子園駅と同様に、駅と一緒に土地整理と開発が進んだために昭和戦前期から落ち着いた住宅街ができていった。
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