早大野球部を2日で退部…元DeNA「笠井崇正さん」が「サークル出身のプロ野球選手」になるまで

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入団2年目、ついに支配下選手に

 もしも、このときドラフト指名されなければ「あと1年だけ独立リーグでプレーをして、その後は故郷に帰って公務員試験を受けよう」と決めていた笠井にチャンスが訪れた。この年のドラフト会議では創価大学の田中正義、桜美林大学の佐々木千隼が注目を集め、それぞれ福岡ソフトバンクホークス、千葉ロッテマリーンズに1位指名されていた。

「彼らについては、もう他人事というか、別世界の住人でした。だから、ドラフト中継も最初の頃はのんびりと見ていました(笑)。彼らと違って、僕の場合は育成ドラフトでの入団だから、3年以内に支配下選手になれなければ辞めるしかない。“まずは支配下選手に”という思いで、プロ生活はスタートしました」

 プロ1年目は育成選手として過ごした。それでも、ファームではある程度の結果を残した。途中、支配下入りの噂もあったが、それは実現しなかった。大学時代には一般学生と一緒にサークルでプレーを続けていた。本格的なトレーニングをしたこともなければ、きちんとした指導を受けたこともない。いわば「ほぼ未経験」ながらも二軍とはいえ、プロの世界で1年を過ごしたことは、大きな自信となった。

「1年目のオフ、球団からの指名で台湾のウインターリーグに派遣されました。周囲からの期待を感じることもできたし、異国の地で生活しながら野球をする貴重な経験もしました。体力面では、まだまだプロレベルには及ばなかったけれど、大学時代には満足なトレーニングをしていたわけではないから、“体力がつけばもっとやれるはず。自分にはまだまだ伸びしろがあるんだ”という思いで、この頃は頑張っていました」

 プロ2年目となる18年1月、ついに朗報が届いた。春季キャンプを目前に控え笠井の支配下登録が決まったのだ。アレックス・ラミレス監督(当時)は笠井の一軍帯同を決め、期待の新戦力として彼を遇した。ようやく、プロ選手としての第一歩を踏み出すこととなったのだ。しかし――。

「せっかく支配下選手となったのに、オープン戦の途中に故障をして、3カ月ほど何もできない時期が続きました。このときは、“まったく、チームの役に立てていない……”と、かなり落ち込みました。それでも、そこから何とか盛り返して、この年の10月、ようやくチャンスをもらうことができました」

 2018年10月1日、対阪神タイガース23回戦。晴れの舞台は甲子園球場である。高校時代にこの地を目指し、憧れを募らせたものの、それでも立つことができなかった聖地に、ついに立つこととなったのだ――。
(文中敬称略)

第2回記事では、一軍のマウンドで体験した「プロの壁」。戦力外通告を受けてから考えた事、そして現在の仕事まで。

長谷川 晶一
1970年5月13日生まれ。早稲田大学商学部卒。出版社勤務を経て2003年にノンフィクションライターに。05年よりプロ野球12球団すべてのファンクラブに入会し続ける、世界でただひとりの「12球団ファンクラブ評論家(R)」。著書に『いつも、気づけば神宮に東京ヤクルトスワローズ「9つの系譜」』(集英社)、『詰むや、詰まざるや 森・西武 vs 野村・ヤクルトの2年間』(双葉文庫)、『基本は、真っ直ぐ――石川雅規42歳の肖像』(ベースボール・マガジン社)、『大阪偕星学園キムチ部 素人高校生が漬物で全国制覇した成長の記録』(KADOKAWA)ほか多数。

デイリー新潮編集部

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