【光る君へ】ついに誕生する『源氏物語』 史実の紫式部はどんな動機から書きはじめたのか

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数巻を書いてから囲い込まれた

 では、いつ書きはじめたのか。それを考えるには、紫式部が彰子の後宮に出仕した時期から逆算する必要がある。彼女が出仕したのは寛弘2年(1005)ではないだろうか。

『紫式部日記』の寛弘5年(1008)12月29日の条には、「しはすの二十九日にまゐる。はじめてまゐりしもこよひのことぞかし(12月29日に参上する。最初に参上したのも同じ日だった)」とある。また、それに続けて、「こよなくたち馴れにけるも、うとまし身のほどやとおぼゆ(宮仕えにすっかり慣れてしまったのも、いとわしいことと思える)」とも書かれている。

 ここからわかるのは、出仕したのが12月29日で、寛弘5年のその日には、宮仕えにすっかり慣れていたということだ。すると、出仕が1年前の寛弘4年(1007)とは考えにくく、寛弘3年(1006)でもまだ2年しか経っておらず、すっかり慣れるかどうかは疑問となる。したがって、寛弘2年(1005)ではないか、と記した次第である。

 ということは、宣孝が死去した翌年の長保4年(1002)から、出仕する前年である寛弘元年(1004)までのあいだに、書きはじめられたと考えるのが妥当だろう。そして第一部のうち、光源氏の生い立ちや、藤壺および紫の上との関係を描いた部分、さらには、光源氏が須磨に流されるくらいまでを出仕前に書いた。一方、それに続く部分は、彰子の後宮に出仕して、宮廷政治のあれこれを実際に目の当たりにしてから書いた――。おそらく、そんなところではないのか。前出の倉本氏も、ほぼ同様の見解を示す。

 ところで、紫式部が出仕したのは、道長に要請されてのことである。『源氏物語』のはじめの数巻で文才を示した紫式部を、道長は囲い込んだと考えられる。

一条天皇と彰子の中を取り持った『源氏物語』

 紫式部が出仕した彰子の後宮の雰囲気は、『紫式部日記』によると、『枕草子』に描かれた定子の後宮にくらべ、かなり地味だった。理由は、彰子が非常に遠慮がちな性格だったことに起因しているようだ。

 そんな状況では、『枕草子』の人気も手伝って、かつての定子の後宮が、貴族たちの追憶のなかでいつまでの存在感を示してしまう。一条天皇にとってはいうまでもない。それでも、『紫式部日記』には、次のような記述もある。

「内裏の上の、源氏の物語人に読ませ給ひつつ聞しめしけるに、『この人は日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし』とのたまはせけるを(一条天皇が『源氏物語』を人にお読ませになられ、お聞きになられていたとき、『この作者は日本紀を読んでいるみたいで、じつに学識があるようだ』とおっしゃるのを聞いて)」

 一条天皇は彰子の後宮に通い、源氏物語を人に読ませていたのである。その意味では、道長のねらいは外れなかったといえよう。

 寛弘5年(1008)9月、ついに彰子は道長邸で、一条天皇の第二皇子である敦成親王を出産した。そのとき、道長邸では『源氏物語』を書き写す作業が行われたが、それは彰子が内裏に戻るとき、一条天皇のもとに持参するためだった。一条天皇は彰子を最後まで、定子のようには寵愛しなかったと思われるが、それでも『源氏物語』が、2人の仲を取り持ったことはまちがいない。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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