元テレ朝「人気アナ」、定年後は「タミヤ」の“模型史研究顧問”に 小6から「絶版キット」収集の筋金入り“プラモデル”愛

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小学生時代から抱いていたアナウンサーへの想い

「しかし、中学~大学の間は、勉学や部活動に勤しんだこともあり、プラモデル製作からは遠ざかってしまうんです。あと小学生の頃から、憧れていた職業がありまして。でも、それをなかなか周囲に打ち明けられない事情もありましてね」

 あこがれの職業、それはアナウンサーだった。松井さんが小学2年生の時、通っていた小学校が統合され、木造2階建て校舎、1学年1クラス20人弱から、鉄筋コンクリート3階建て校舎、1学年4クラスの合計160人へと様変わりした。何より松井少年の胸をときめかせたのは、給食の時の各教室にある「校内放送」のテレビだった。

 5・6年生の放送委員から選ばれたアナウンサー役の生徒が「児童会だより」や連絡事項を読み上げたりする。朝礼の時には、生徒が集まるより前に会場設営を行い、校長先生にマイクを手渡す。そうした“裏方”の仕事にも興味があった。5年生で放送委員、そしてアナウンサー役を務め、中学校では放送委員長も務めた。

 小学校の時からトランペットを吹き、中学・高校ではブラスバンド部。高校は地元の進学校に進んだ。充実した青春時代だが、

「アナウンサーになりたいなんて、誰にも言えなかった。アイドルになりたいというのと同じような感覚ですから。でも高2の時に進路を理系か文系に決めないといけないのですが、数学・物理・化学が得意だったので理系を選択。ただ、仕事はアナウンサーになりたい。そこで、書店に行き、アナウンサーになるにはどうするのか調べたところ、私が読んだ本では『早稲田大学か立教大学のアナウンス研究会に入るのが近道』と書いてあった。よし、それなら大学は早稲田を目指そうと決めたんです」

 しかし、松井さんは姉二人がいる末っ子長男。東京の私立理系大学に通う学費を親に工面してもらえるかどうかわからない。そこで、ある考えが浮かんだ。

第2回では、アナウンサーとしてテレ朝入社後、久米宏さんとの思い出。そして社会人になって再燃したタミヤ熱の勢いについて語る

松井康真(まつい・やすまさ)
1963年生まれ。2023年3月テレビ朝日を定年退職し、故郷の富山県南砺市井波町のすばらしさを全国に伝えたいと「OFFICEユズキ」を立ち上げフリーアナウンサーに。東京と富山の2拠点生活に加え、タミヤ模型史研究顧問の肩書きが加わり静岡も第3の拠点に。

デイリー新潮編集部

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